1月に異動の辞令があり、福岡から東京に先に戻っていた夫。
私と子は、幼稚園年少が終わる3月まで、単身赴任で生活していました。


夫は、コロナのせいで2月頃からずっとテレワークをしていました。
東京に戻ったら狭い社宅の部屋になってしまったので、寝室に閉じこもって、一時的なものだからと机も買わず、ベッドの上で毎日パソコンと向き合っていました。
腰が痛いと言っていましたが、とにかく健康な夫なので、気にしていませんでした。


部屋が狭すぎで物が入らないので、3月に家族合流してからは、マイホームを購入するため、不動産屋通いをしていました。


良い土地が見つかり、注文住宅を建てることになったので、工務店と打ち合わせをしながら、住宅関連の雑誌を見たりネット検索をしては、夫と間取りや建材を考える、楽しい、夢ふくらむ毎日を送っていました。


夫が救急搬送された日の夜は、ようやく希望の間取りが形になったところで、私が作った餃子を美味しいねとたくさん食べながら、ビールを飲んで、ごく普通に21時に就寝しました。


夫はいつも子供と寝落ちしてしまうので、私は子供が寝てから一旦起き、録画していたドラマJINの最終回を見てから、12時頃就寝しました。


異変に気付いたのは「ウゥッ!」という夫の大きな呻き声でした。
私は眠りが浅いので「どうしたの!?」と即聞いたのですが返事がないので、明かりを付けたところ、ぶくぶく血の滲んだ泡を吹いて、手足をバタつかせてる夫の姿を見ました。


「死ぬ!!」と思い、1分後には119番を押して救急車を呼びました。時間を確認したところ4時。


4歳の息子も私の騒ぎで起きたのですが、「あはははー!パパ、何やってるのー!」と爆笑し始めたので「何言ってるの!パパ、死んじゃうかもしれない!」と怒鳴っていました。


今思えば、呑気な息子でトラウマにならず良かったと思いますが…。


JINの名言が頭の中でずっと鳴り響いていました。



「神は、乗り越えられる試練しか与えない!!」



私は、夫のほっぺをピチピチ叩きながら名前を呼び続けて、気が動転していたせいで、息があるのに心臓マッサージしたりを繰り返していました。
死なせないという思いのほうが強くて、泣いて取り乱すことはしませんでした。


折り返し救急隊員からの電話があり、体を横に向けるよう指示がありました。
硬くて、重くて、動かせませんでした。
痙攣は数分の出来事だったと思いますが、泡を吹きながらもイビキに変わったので、これは助かると思い、一旦放置し、私と息子は着替えて、病院にいく荷物をまとめ始めました。


すぐに救急隊員が駆けつけてくれ、ストレッチャーで運ばれ救急車に乗せられました。
「心筋症」との言葉が飛び交っていました。
私もそう思いました。
5年前に、義理の弟(妹側の)も心疾患で明け方に突然死した過去があります。
享年34歳。
当時4歳と6歳の子供を残して、呆気なく亡くなったのです。


姉妹共、夫が同じような病気を発症するなんて、呪われている…と思いました。


救急車に乗ると、夫の意識が戻り名前と生年月日が言えたので、あぁ良かったと安堵したのも束の間、またすぐ痙攣が始まり、救急隊員二人がかりで押さえ付けられていました。
とても強い力で暴れていました。


受け入れ先の病院は、3軒目で決まりました。
早いほうだと思いました。
病院に着くまでの間、2、3回痙攣を繰り返したと思います。


すぐにICUに運ばれ、私と息子は個室で待つよう言われました。
息子はいきなり起こされて眠かったはずなのに、憧れの救急車に乗れた興奮からか、眠らず、静かに、待っていました。