沢山のご縁の中で感じること
いつも応援して下さっておおきにでございます。
最近、「ご縁」ってコトバが妙にココロに刺さります。
面接でもそうですが、
沢山の方とお会いする中で、
この方との出会い(ご縁)には、きっと何かの意味があるんだろうなぁ~っていうこと。
海外旅行に行った時なんか、妙に自分の存在が客観的に感じたり
(映画の主人公のような感覚、ありますよね?僕だけ?)
国内でも見知らぬ町で遭遇した出来事や、
そこに携わったヒトたちの笑顔や考え方なんかに
深く感銘を受けること、ありませんか?
僕は、多種多様な価値観の方々(それこそ国籍も宗教も違うヒトたちが多いです。)と接した時、
メチャメチャ感動すること(プラスの感情が湧き上がること)
あるいは大きく違和感を感じること(マイナスの感情に包まれること)
両方とも本当に多いです。
そんなココロが大きく動く一瞬一瞬を積み重ねながら、一つとして、
「この出会いは無駄だった」「こんな出来事、無かったら良かったのに」と感じたことがありません。
でも、最初からそんな風に思えるわけでは無かったはずだよな~?
いつから?なんでそう自然体で「ストレスなく」出会いを楽しめるようになったのかなぁ?
と考えたら、解ってきました。その理由。
それは、「目的思考」と「自立・自律」の度合いが年齢と共に強まったことが大きいと思っています。
僕の周囲を見渡しても、「目的」を持って生きてる方々の場合には、
どんな「まさかの事態」や「悲しい出来事」であっても(うれしい出来事なら尚更ですが)
一瞬一瞬の体験(と感情)を逃さず、チャンスも挫折も全てを自身の因果として受け止め、
そのプロセスで何らかの成長の種(気づき)をココロに残している。
自分の人生を常に自分で選択しているオーラ(自立感)が漂ってますよね。
そしてより大きな成果を出そうと、
あるいはより大きな貢献を果たそうと、
自分の能力に磨きをかけていく姿勢(自律感)も「凛とした雰囲気」としてまとわれている。
日々、必ず彼・彼女らの「人生の目的」や「プロジェクトの目的」に向かい、
地に足つけて生きている。
だから周囲から見てても高潔で、キラキラ輝いている人生を送れるものなんだなぁと感じます。
そういや、自分の生きる目的なんて考えたことも無かった25歳くらいまで、
僕は周囲で起こる出来事や出会いに流されていた。
自分軸を持った上で物事の本質を考えたりヒトを感じたりすることが出来ず、
一つ一つの出来事や出会い(ご縁)に、かなりストレスを感じていた気がします。
が、おシゴトを通じた出会いの中で、沢山のロールモデル(生き方がカッコイイ、人生の先輩方)に触発され
「僕もああなりたいな~」
「ああいう人生を送るには何が必要なんだろう?」
なんて考える時間が増えていくにつれ、
段々と
「フジタサトルの人生の目的は●●だ。」
と思えるものが鮮明に描けてきました。
その目的はこんなブログに書くのは恥ずかしいので、また機会があった時にでも・・・![]()
(みなさん意外がられますが、素でかなりシャイです。sotsogというIDがヒントです。)
そんなこんなで、2008年現在、僕は自分の人生の目的(なぜ、何のために生きてるのか?)に照らして、
一日一日どころか、毎秒毎秒起こる出来事も出会いも新鮮。
沸き起こる感動が人生の映画の1ページに刻まれる時間を過ごせています。。。
些細な心境の変化は行動に現れるもので、
僕は27歳以降、音楽を聴きながら歩くのを止めました。
(大学時代からずっとデカイヘッドホンが必需品。もう10年も前からテルマー
な頭部が
フジタのトレードマークでしたよ)
とにかく音楽が大好き。どこに行くのも常に音楽を持ち歩いていましたが、
ピタッと止めた。
電車に乗ったり、街に出歩いたり、
そういった一瞬一瞬で、自分が身を置いている場所でしか出会えない音
(ほとんど雑音かも知れませんが・・・)
に耳を済ませることで新しい世界が拓けるかもしれない。
渋谷でしか聞こえない、日焼けめちゃめちゃしているヒトらの会話や、
青山でしかやっていない、首都圏限定プロモーションカーの宣伝や、
群馬でしか出会えない、素朴で楽しげな高校生の方言や、
白石でしか降っていない、キメ細やかな雪のふる音や、
高井田でしか出会えない工場の機械音。。。
そういった「そこに身を置いた一瞬でしか聞こえない音との出会い」を掴んでいこう!
と強く思うようになった。
とは言え、
今日、とある家電量販店での買い物に付き合ったのですが、
今更ながら…
「やっぱ僕もiPOD欲し~」
(自分の信念との闘いですね
)
近いうちに無意識に買っちゃうかもしんない…
OASISの「The Shock Of The Lightning」をフルボリュームで聴きながら…
from 雨の大阪