言わずと知れた「天声人語」のもじりである。
このコラムは、現執筆者も名文家だが、私の世代では、1950,60年代の執筆者
荒垣秀雄さんの名を欠かすことはできない。
私の友人で、荒垣さんに惚れ込んで新聞記者を志し、何回も受験したが、どうしても合格
できなかった男がいる。彼は引退していた荒垣さん宅に足繁く通い、根負け?した御大
の推薦で、朝日の出版局に入れてもらった。朝日にも友人にも明朗な話ではない。
彼はいい仕事をしていたが、40代で急逝したので、お二人にとっても時効であろう。
私はものごころついたころ(1944年?5歳ぐらい)から朝日とつきあい、いまに続いて
いる。もちろん家の購入紙のカナ文字を拾い読みしただけだが、その最初の記憶は、
日米が戦っていたさなか、現職の米大統領ルーズヴェルトの訃報であった。45年4月
だから、当時の国民学校一年生に入学したばかりであったと思う。
アメリカの総大将が死んだので、戦況が(日本に)有利になるかのような観測記事が
あったように思うが、もちろん日本はすでに追いつめられていた。軍部の報道統制で
国民はほとんど真相を知らされず、朝日も例外ではなかった。ずっと後に朝日は検証
記事を連載した。朝日も日本の戦時体制の被害者であった側面は、否定できない、とは
いえ、その戦時体制の中枢に、朝日は主筆であった緒方竹虎氏を情報院総裁(閣僚級)
として送りこんでいた。国家総動員の時代であり、一概に批判はできないが、朝日乃至は
報道界の汚点であることは間違いない。
終戦(私には敗戦の方がピンとくる)によって、日本は生まれ変わった。天皇の人間宣言と
新憲法が、国民の多数に支持されたのが大きいと思う。私たちの世代は、昭和ヒトケタ世代と
違って、歴代天皇の名前も暗誦できず、教育勅語も知らないが、新憲法を満喫した。ヒトケタ
以前の世代が苦悩した価値観の大逆転を意識しないですんだ。朝日新聞は、おおむね戦後の
思想潮流に乗り、時にはリードしていたように見える。したがって、読者である私にとっても、朝日
は良き伴走者であり続けた。
これから述べることは、男の平均余命まであと数年に達した男の繰言になるかもしれない。それは
否応のないグローバリゼーションのなかで、日本は、日本人は、どう振舞うべきかについて、朝日の
姿勢が明確でないことへの焦燥感である。朝日に限ったことではなく、いまやテレビという報道勢力も
含め、マスコミは世に満ちているが、国のあるべき姿、行く末について考えさせ、ヒントを提供しようと
いう報道が少なすぎる。むしろ刹那主義的な、チャラチャラした報道(放送)が幅を利かせている。
どうしたらいいか、私なりの現状批判と提言を徐々に明らかにしたいと思っている。