今日は、ちょっと
自分の身に起きている
不思議な出来事について綴ってみようと思います。
よく
「スピリチュアル系ですか?」と
聞かれることがありますが、
正直に言えば
——好き、ではあります。
若い頃は星占いや占いが大好きな
ごく普通の女の子でした。
ただ、人生、どん底だ!
なんて思っていた時期。。。
まるで道場破りのように、
いろんなスピリチュアル系の講座に出たり
ヒーラーをはじめ
たくさんの人に
会いに行き
セッションを受けてみたり したものです。
👆
若かった。。。。笑
ただ
その中で気づいたことがあります。
それは結局、
本質や答えは
いつも自分の中にあるということ。
誰かに答えをもらっても、
どんな理論を学んでも、
最後に
「しっくりくるかどうか」を決めるのは、
自分自身なのだと。
とはいえ私は昔から、
・前世の記憶をなんとなくですが 覚えていたり
・人の気持ちが自然と分かったり
・小さな未来の出来事が、分かったりと
…そんなことが、時々ありました。
本当に小さなことばかりですが。
ナチュロパスという
仕事を選んだのも、
科学、量子論、波動、スピリチュアル——
どれか一つに偏らず、
多角的に“人を観る”ことができる
その在り方に
惹かれたからだったのだと思います。
昨年から、
朝の習慣を友人と一緒に続けています。
朝、犬に起こされ、
太陽が昇りかける時間に
散歩をする。
大きく呼吸をして、
光を浴びる。
家に戻ると、
なぜかお香を焚きたくなり、
その香りの中で
ジャーナルを書く。
そして今年に入ってからは、
夜も「内観の時間」を
意識するようになりました。
そうしているうちに、
インスピレーションや
シンクロニシティが、
ほぼ毎日のように起きる
そんな感覚になってきたのです。
最近では、電話をしなくても
夫が「何を食べたいか」が、
なぜか分かる。
本人はもう驚くのを通り越して
「嫁はテレパスみたいな人」と
解釈しているようです(笑)
そして——
これは少し
切ない話なのですが
人の“旅立ち”が分かる感覚も、
はっきりしてきました。
最初にそれを強く感じたのは、
夫の祖父が
亡くなった時のことです。
仕事中、突然、
部屋が一気に
霧がかかったようになりました。
これまでにも、
亡くなられた方の
“気配”を感じることはありましたが、
空間が霧がかるように感じたのは初めてで、
強く印象に残りました。
その時、なぜか「時間」だけを覚えていて
午後2時半を回ったところ。
翌日、
夫の家族から連絡があり、
祖父が老人ホームで
息を引き取っていたことを知らされました。
発見されたのは夕食時で
正確な死亡時刻は
医師により数日かけて推定されたそうです。
そして推定された時間が——
あの日の午後2時半ごろ
「あぁ、おじいちゃん、挨拶に来てくれたんだな」
そう、腑に落ちた感覚で
納得してる自分がいました。
夫の祖父とは、
以前から不思議なご縁を感じていました。
夫もよく
「おじいちゃんが、君を見る目は他の人と違う」
と言っていました。
透き通るような目。
でも目を合わせると、
すべてを見透かされるようで、
それでいて、愛に満ちたまなざし。
……誤解のないように言いますが、
スケベなおじいちゃんではありません(笑)
とても誠実で、
物腰が落ち着いていて
ユーモアもあって、
本当に大好きな人でした。
ちなみに 祖父は
ドイツ系のオーストラリア人です
だからこそ、
「まさか孫の嫁である 日本人の私のところに来るとは…笑」
と、今でも少し不思議な気持ちでいっぱいです。🌸
そして昨日、また不思議なことが起きました。
お風呂場で、
突然
プロジェクターのように映像が浮かび、
同時に、
「あぁ、きみちゃんのお母さん、もうだめなんだ…」
※きみちゃん=幼なじみ
という、
悲しいけれど
不思議と納得のある感覚が湧いてきました。
そして今日(翌日)の夕方
きみちゃん本人から
訃報の連絡が届きました。
きみちゃんのお母さんにも、
本当にお世話になったなぁ…。
自分が年を重ねると同時に、
同年代の親世代が旅立っていく。
自然の原理とはいえ、
やはり悲しく、
切ないものです。
だからこそ、
今日という1日1日を、丁寧に生き抜こう
そんなふうに、改めて思うのです。
PS
この世には、
科学でも、
まだ証明できない不思議なことが、
たくさんあります。
でもそれは、
「存在しない」という
意味ではなくて、
私たちが
エビデンスや証明が当たり前だと思う次元に
今、立っているだけなのかもしれません。
最近では、
散歩道で出会う木々の波動や
その場の空気の揺らぎのようなものを、
ふと感じることが増えてきました。
また
赤ちゃんや子ども、
そして動物たちに
好かれることも多くて
その瞬間に
感じる
あのやわらかな安心感は、
何ものにも
代えがたい喜びです🥰。
説明はできなくても、
確かに“ある”と感じられるもの。
それを大切にしながら、
今日もまた、
静かに日常を生きています。

