ずっと書こう書こうと思っていた、壮輔が亡くなって荼毘にふすまでのこと。
辛くて書けなかったのではなく、
日々思うことが色々とおきて、ついそっちを優先させていたら後手後手になってしまっただけですが。
壮輔が生まれたのは2014年12月26日23時45分。
45分の人生を終えたのが12月27日0時30分。
12月27日から、煙となってお空を渡っていった1月4日まで9日間
親子で過ごすことができました。
その間のことをぼちぼちと書き残しておこうと思います。
テーマが「お空までの9日間のこと」となっているものは、その間のことです。
私の病院は、グリーフケアの意識のある病院だったので色んなことをして頂けたと思う。
時間があったから、家に帰ってからもしてやれることは多かった。
やっぱり病院によっては、グリーフケアに対する配慮がない病院もあると思うので
お辛くなる方はどうぞ、スルーしてください。
その時のことを思い出してお辛くなる方もいらっしゃるでしょうし…。
どうして9日間も一緒にいられたのか、というと
小児科の先生が死亡届を書き間違えたのと、年末年始だったからです。
27日の夕方に病理解剖をしてもらい、確か死亡届をもらったのも27日土曜日。
そしたら数字が一か所間違えていらっしゃったところがあって、訂正を…となったけど
死亡届を書いてくださった先生はその時にはもう帰っておられて、28日日曜日はお休み。
29日にならないといらっしゃらないので保留…ということに。
その間に夫が「小さなお葬式」というところにお願いをしていたので、死亡届は葬儀屋の方が出し
火葬の段取りをしてくれる、という手はずになっていた。
ただ、もちろん、先に出生届けを出さないと死亡届は出せないので
まずは夫が出生届けを出し、29日以降に訂正してもらった死亡届を出し…とごたごたしていたら、
年末だから31日まで火葬場がいっぱい
という状態でした。
年末に亡くなった方がいらっしゃったら、お葬式は年が明けてからで
とりあえず先に火葬…とされる方が多いらしい。
なので、年が明けて最初に火葬場が稼働する1月4日まで待つことになりました。
もし早く死亡届を出すことができていたら、火葬場があいていたら、年内に火葬となったかもしれません。
私は一分一秒でも壮輔と一緒にいたかったから、壮輔の顔を見ていたかったから
これは本当によかったと思った。
でも夫は、早くお空に還してやりたい、辛い姿でこの世にいさせるのは可哀想、という想いだった。
9日間もあったら、体がもろくなって崩れてしまうのではないか、
見ていて辛い姿になってしまうのではないか、
そう思っていたみたいです。
でも、助産師さんが壮輔の体の周りに敷き詰めた氷をこまめに変えてくれたおかげで、
皮膚の色が変わったことを除けば、においがするとか皮膚がもろくなるとかといったことはなく
きれいなままでいてくれました。
皮膚の色も、呼吸ができずチアノーゼで黒かったのが、赤みがさしてきて
「赤ちゃんらしく」なった気がします。
助産師さんは
「お母さんがが思うようにして。居たい時は一緒にいていいよ
ずっとお部屋で一緒にいていいんだよ」
と言ってくださったけど
夫がそれを許してくれず、一日に3回、数時間連れて来てもらうということになりました。
とことん壮輔の体が崩れてしまうことを心配していたみたいで…。
それと、思いが残りすぎるのはよくないという気持ちもあったみたいで…。
私たちの個室にいない間は、壮輔はナースセンターにある赤ちゃん用の霊安室にいました。
ナースコールをしてお願いしたら連れて来てもらえました。
助産師さんがおっしゃるには、7日間くらいなら氷など冷やすことを気をつければ大丈夫とおっしゃってた。
今思うと夫の言うことなんか聞かないで、ずっと一緒にいればよかったなあ…。
夫の想いも親としての愛情からだから、無下にできなかったけど…。
私の主治医は男性で淡々とした先生で、とっつきにくいところもあったけど
火葬が1月4日になったことを話したら
「この子が長く一緒にいたかったんやね」
って言ってくれて、それは嬉しい言葉だった。
帝王切開だったので、もし火葬が年内になると私が一時退院できるかどうかという問題もあって…
まあドクターストップがかかっても、病院から抜け出すつもりではいました。
夫にもそう話していた。這ってでも見送るからと。
この時「せめて親としてすべきことをちゃんとしなければ」と、その思いだけが私を支えていました。
限られた時間でできること…。
それを考えていたから私も壊れきることはなかったのかもしれません。
あーやっぱり思い出しながら書くと涙がでてくる。
壮輔に会いたい。