射手それぞれに得手不得手があり巧拙もあるが、射手の思惑で弓を引くより自然(じねん)に委ねた方がよっぽど良い射となります。

 

初(はつ)とは初心に戻れという事。

初心とは十年も巻き藁を引いて、一通りの事が身に着いた状況です。

 

そこで、もう一度頭の中をからっぽにして、初めての弓、初めての弓掛けで、初めての矢を初めての道場で初めての的に放つのです。

つまり、何の先入観もなくという事。

 

こうすればこうなる筈だという事が無いので、弓を引き始めると、次々に鮮やかな感覚が現れ、その一つ一つに拘(こだわ)りがないので、心に迷いが生まれず体に歪みが生まれないのです。

 

初の射とは、頭、即ち知識や思考を用いず、心、即ち感覚や感情を用いる事です。

ヒトが言語を獲得する以前は長らく感覚や感情が行動原理の判断基準だったのです。

 

弓道ではよく「相応の力」を用いるなどの言葉が使われますが、例え500g重の力の大きさと指定されても、その力を発揮する術などありません。

行射中に用いる力をデジタル表示するようなことは出来ないので、あくまでも弓射は感覚の世界なのです。

不言流の不言(ふげん)とは言葉を離れた真如(自然法爾の真実)です。

 

より安定してより小さな力で、より正確により勢いよく的に中る。

初めから、用いる力が決まっているのではなく、より良い形になればより小さな力で済むのです。

それは、最も原始的な感情、つまり快か苦によって判断され、連続的に良い形というモノが出来ていくのです。

その統合されたものが射法ということになります。

 

ただ、日本には世間体という言葉が有り、長いものには巻かれろという文化が有りますね。

身分制度の上下社会を礼で安定させようとした儒教の教えが根強いですね。

王様が裸でも、自分が一番先には指摘しないのが、お利口さんですか?