動物は本能で生きる。
つまり、快感という餌を五感で探し、五感で味わうのが本能的な生き方です。
このシステムで大事なところは、餌を味わうことでしか快感を感じないのなら、このシステムは起動しないのです。
餌の存在を見つける五感を前提とし、餌の存在を認識しただけで、それ自体が快感となるのです。
この快感を予感する快感こそが、五感で快感を感じさせるシステムには大事なんです。
一般に、モチベーションと言われている言葉の原型みたいなものです。
果実の熟した香りを嗅いで、それを食した時の快感を夢見るようなものです。
その快感は、知りえる同種の快感の中で、最高のものを元にして記憶が再構築されます。
まるで、宝くじを買った人が、一等を夢見るようにです。
それが、一般的なヒトの設定なんです。
ちょっと脱線しましたが・・・。
人には言葉が有って、私は第6の知覚だと思っています。
言語は情報そのものですから、色々と知りえるわけですね。
また、思考によって新たなイメージ・心象も作り出すことが出きます。
そのイメージが醜の場合は、不快・苦をもたらしますし、美の場合は快感・感動をもたらします。
私のやっている合唱なども、人が感動の元になる新たないイメージを作り出すトリガーとなっています。
こうした感動、スポーツでも芸術でも、その他、色々な場面で感じられると思いますが、本能に植え付けられた快感よりも、法外に強い強度の快感設定がなされています。
自身の命を賭しても行われる行動、・・・英雄や聖者などと評される場合があります。
人類愛、理性など言われるものの根元や枝先にあるのは、個人の中に秘められた快感ですね。
また、それに気づかぬ人も多いのでしょう。
これを、法悦と言った者もいるようです。
『動物は快感に生き、人はその上で感動に生きる。』