ヒトには、生前的に快と不快の感覚が付与されていて、成長と共に更にこれらの感覚を発展させていく。
摂食でも排便でも、呼吸でも、交わりでも、芸術や道徳的な経験でも、ヒトには快感が与えられているから、現状では何が最も刺激的かを判断しヒトはそれを求めて行動する。
また、現状で、求め様としている快感よりも、不快感の刺激量が大きいと、それから逃げようと行動する。
快感と不快感で、求めようと行動したり、逃げようと行動する。
こうした単純な行動の契機・志向性の上に、ヒトの知性はただフローしているだけなのです。
さて、弓道の場合、快と不快はどの様に考えれば良いでしょうか。
良い射なら、その度合いに応じての快感が有るでしょう。
ダメな射なら、同様に不快感が有るでしょう。
それが残心なのです。
自然の射のざわざわと身に沁み込むような感動。
それが、朝嵐という言葉なのです。
その上の感動も有ります。
途中で意識が飛んでしまう悟りの射です。
我に戻るまで少しの時間が掛り、生まれいずる喜びに浸り時が流れます。
更に、正射の感動が、時間を止めてしまいます。
残身・残心なければ、ダメ射の表明。
自分こそ、その射の真価が分かります。
ヒトである限り、素晴らしい射の感動を味わうこと無しに捨てる訳がない。
