早気に陥っては既に弓道ではなく、美しい射に溺れては道を誤っている。

装束、射形、体配など、射手は少しも射品などに頼ってはいけない。
射の美しさは、矢飛びにこそ現れるものだ。



本来、弓とは自分のために引くもの。
来賓や大衆を相手に楽しませるものではない。
もし、百射して皆中したなら、多くの者がそれを称えるであろう。
しかし、その何割かは失射で皆中したのなら、自身に悔いるところが多いものだ。



美しいとは、そのような物はどこにも無い。
自己の中に美しいと感じる心を養ってこそ、それが美しいと感じられるものだ。
また、美しさはその程度の差が大きく、ひとえに自己の養心に掛かっている。
より高みに設定した美しさ、それに対して何の濁りも無いものほど、その感動は大きい。



美しい、心が仄かに温かくうっとりとする感覚。
高嶺の頂に辿り着いたであろう最後の一歩を踏みしめた時・・・会
思わず向けた視線の先にある俯瞰・・・残心



射手でなければ味わうことの出来ない美しい射が有ると思います。
だから、私自身が射手なのです。
他者が美しい射と称しても、それは射手が求め感ずる美しい射とは、全くの別物でしょう。