射裡見性の射は離れの前に意識が飛んで、残身で意識が戻って来る射だ。
これこそ、何も足さない、何も引かない、本物の自然の離れと云える。
ただ、これが弓道かといえば、既に弓道を逸脱した禅の悟りでしかない。
ひと、命、それが何であるかを、死と復活との経験で悟ることに他ならない。
こうした悟りの射には、射法も射技も、上手いも下手も何にも関係ない。
まあ、一途な弓道への思い入れによってのみ、起こるようなものだ。
弓道の範疇で射を考えれば、意識を持って離れを行う事だ。
離れは一瞬に大きな弓力が放出されるので、離れの直前には離れを意識して無駄に力がこもり、離れると同時に今度は精神も肉体も弛緩してしまうものだ。
これでは、好い射にはならない。
離れの前に、心も体も充分に静め、その中で気力を高めて、離れに動じない心身を作ることが大事だ。
例えば、剣で人を切るとして、何のこだわりもなく、溜めを作らずに力まずスッパっと体の方から動いて切らなければならない。
このように不動の心身から何のさわりも無く離れ、離れを見切る・感じ切る覚悟で、残身まで意識をつなぐ事こそ、良射の大事な所だ。
その為には、離れの前後で、息が漏れているのだが、その微かな息の漏れる流れを残身までたもつことだ。
と、同時に、的の中心から視線を外さない事。
この両者が出来れば、本物の範士と云えるに違いない。
恐らく、こうした射手は一世に半個一個のものであろう。
これこそ、何も足さない、何も引かない、本物の自然の離れと云える。
ただ、これが弓道かといえば、既に弓道を逸脱した禅の悟りでしかない。
ひと、命、それが何であるかを、死と復活との経験で悟ることに他ならない。
こうした悟りの射には、射法も射技も、上手いも下手も何にも関係ない。
まあ、一途な弓道への思い入れによってのみ、起こるようなものだ。
弓道の範疇で射を考えれば、意識を持って離れを行う事だ。
離れは一瞬に大きな弓力が放出されるので、離れの直前には離れを意識して無駄に力がこもり、離れると同時に今度は精神も肉体も弛緩してしまうものだ。
これでは、好い射にはならない。
離れの前に、心も体も充分に静め、その中で気力を高めて、離れに動じない心身を作ることが大事だ。
例えば、剣で人を切るとして、何のこだわりもなく、溜めを作らずに力まずスッパっと体の方から動いて切らなければならない。
このように不動の心身から何のさわりも無く離れ、離れを見切る・感じ切る覚悟で、残身まで意識をつなぐ事こそ、良射の大事な所だ。
その為には、離れの前後で、息が漏れているのだが、その微かな息の漏れる流れを残身までたもつことだ。
と、同時に、的の中心から視線を外さない事。
この両者が出来れば、本物の範士と云えるに違いない。
恐らく、こうした射手は一世に半個一個のものであろう。
