春になると小鳥たちの鳴き声も盛んになるような気がします。

中西伍堂の事はほとんど名前しか知りませんでしたが、魚住さんが書いておられる人物像にとても惹かれルと同時に、魚住さんの感想に共感します。長いですが引用させていただきました。



わき道をゆく
第67回 もう忘れたのかと鳥は啼く 魚住 昭


中西悟堂という名を聞かれたことがあるだろうか。明治生まれの僧侶にして詩人・歌人。自然を愛し、鳥や虫を終生の友とした「日本野鳥の会」の創立者である。

 彼の『かみなりさま』というエッセーに魅入られた。悟堂は27歳のとき埼玉県・飯能の山寺に住んでいた。当時の飯能は今と違う。


「夏じゅう、カミナリさまは毎日々々飽きもせずに、午後というと秩父の山塊からお出ましになる。それも、ただ出てくるのではない。眷属たくさんを連れて出てきて、連日随所へお下りになるのだ」


 ゴロゴロがガラッピシャッ、ドロドン、カリカリとなった後、家が鳴り響いてドカンと落ちる。ある日、それがとうとう眼前1㍍余りの大樹を一挙に裂 いた。


「垂直二十㍍の巨幹が紫電と白光 の中で、てっぺんから根もとまで真っ二つに割れると、材質の内部の避け口が、異様に白くヒラヒラした。キナ臭い匂いもした」


 一瞬の出来事に悟堂は呆然とした。その後の異常な静けさのなかで自然の怖さに震え上がった。

 彼は峠の細道で大熊に出くわし肝を潰した経験がある。が、雷の怖さはその比ではない。いつまでも恐怖が後を引き、「俺はいつかは雷に打たれて死ぬ運命なのかもしれぬ」と思うようになった。

 飯能から東京に移っても恐怖は消えなかった。西荻窪の善福寺池畔に住んでいたころ、西の空でゴロッと鳴ると、自転車を西荻窪駅に走らせ、中央線で新宿まで行き、駅の地下道にしゃがみ込んだ。そこなら安全と思ったからだ。


 こんなふうに雷を怖がったのは彼1人ではない 。昔、大森の料亭で詩人らの会合があったとき、激しい雷雨に遭遇した。それに驚きあわてて二階から駆け下り、帳場の格子の四角い穴に首だけ突っ込んで震えていた詩人がいた。


 悟堂曰く、「あとで御本人から直接きいたところによると、自分がこう怖いのは僕は雷で死ぬ運命に違いないと言った。この点では私と全く同格なのだ。その人は誰あろう、高村光太郎だった」

 著名作家の宇野浩二も「恐雷の同士」である。彼は雷から逃げ込むため自宅にわざわざ地下室を作っていた。彼らの他にも「恐雷さん」はかなりいたと言う。

 私だって雷は怖い。でも、悟堂たちほど極端な「恐雷さん」は見たことがない。どうやら2、3世代前と今では、雷の怖がり方のレベルが格段に違うらしい。


 なぜだ ろう。むろん住環境が違うのだろうが、それだけではないと思う。日本人の心の底にある自然観がこの数十年で様変わりしたのではないか。悟堂の自伝を読みながら、そう感じた。


  悟堂の生い立ちは哀しい。1歳のとき父が日清戦争で負傷して病死。母は消息を絶った。そのため伯父(板垣退助の側近)の養子になったが、6歳ぐらいまで足 が立たぬほど病弱だった。おもちゃが嫌いで、友だちとも遊ばない。石板と石筆さえあれば1人で遊ぶ、変わった子だったという。

 やがて養父が渡米。3年後に帰国するまで、別の伯父に預けられた。その妻が冷酷だった。悟堂を殴って傷だらけにし、腐った弁当を食べさせた。悟堂は虐待に耐えかね、2度も自殺を図った。


 転機が訪れたのは10歳のとき だ。米国から帰国した養父が「あと数年しか生きられぬ極端な不健康児」と言われた悟堂を秩父の山寺に放り込んだ。


 和尚は悟堂に150日の荒行を命じた。最初の108日が座りっきりの坐行。次の21日が滝に打たれつづける滝の行。最後の21日が断食の行である。彼はそれに耐えた。山中の孤独を慰めてくれたのは、座禅中の彼の肩や膝へ来てとまる小鳥の群れだった。


 これには和尚も呆れたらしい。「お前は面白い奴じゃの。わしには鳥どもはたかったことはないが、お前にはようたかる。誰にも滅多にないことじゃ」と言った。


 断食の行が明けると、悟堂は山寺でしばらく遊び暮らした。お堂の縁などに腰掛けて足先をぶらぶらさせていると、鳥たちが来て彼の肩や膝で遊んでくれた。そ れがどんなに嬉しかったことか。だからいよいよ寺を去る時は、山の小鳥との別れが辛かったという。


 荒行で悟堂は生まれ変わった。「からだ中がすがすがしくなり、それ以前の病弱はどこへやら、身軽にもなり性格も一変して、溌剌とした少年になった」


 15歳で天台宗の僧になり、仏教学校に通い、寺で修行しながら短歌や詩をつくった。30歳から武蔵野の林で、そば粉を主食に、木の芽や大根の葉や野草を塩でもんで食べる木食菜食生活を送った。


 昭和4年、3年半の木食菜食生活を終え、善福寺池畔で野鳥や昆虫や魚の生態観察を始めた。彼が世間の耳目を集めたのはそれからだ。


 当時は鳥は籠の中で飼うのが常識だったのに、彼は家や庭に放し飼いした。雀を何羽も肩に止めて 外出したり、鵜を頭に乗せて街を歩いたり、カラスをお供に林を散歩したりした。それを見て「お伽の国の奇蹟だ」 と人は驚いた。

 カラスは毎朝、悟堂を起こしに来て、鞠をくわえ門外に誘い出した。彼が鞠を投げると、カラスがそれを嘴にくわえとる。そのキャッチボールが朝の日課だった。


 裏の草地で育った5羽のコジュケイの幼鳥は夜、梧桐の脇の下に固まって寝た。のばしたその腕には、これを腕枕にして飼い猫が寝た。訓練された猫は鳥にとびかかることは決してなかった。


 評判を聞いて集まった民俗学の柳田国男、元皇族の山科芳麿らの後押しで、悟堂は野鳥愛護の機関誌を創刊することになる。その発行母体として昭和9年に誕生したのが「日本野鳥の会」である。


  悟堂の思想の根底には「山川草木国土悉皆成仏」(山川や草木や国土のようなものもことごとく仏になりうる)という天台仏教の 教えがあった。彼は野鳥や虫の命に人間の命と同じ輝きを見つけ、その背後にある自然の神秘的な力を心底畏怖した。極度の「恐雷」もそれと無縁ではないだろ う。

 その悟堂のことを思いながら善福寺公園(広さ約8万平方㍍)を歩いてみた。5月の爽やかな風が吹く土曜の午後だった。

 クヌギや杉や桜の木の上で鶯色のメジロが「ピーチュルル、ピーピルリ」とさえずり、シジュウカラが「ツーツーピー」と鳴いた。黒っぽいカワウが小魚を探しながら池の水面すれすれを横切った。

 陽が落ちかけると、白い腹毛に青い羽のマントをまとったゴイサギが高木のてっぺんにぽつんととまり、身じろぎもしなかった。


 もし悟堂が生きていたら、とふと思った。いまの日本をどう考えるだろう。 巨大地震と放射能汚染に見舞われながら、原発をやめようともしない。

 落雷を目の当たりにしただけで自然への畏怖を深く心に刻みつけた彼のことだ。狂気の沙汰だと叫んだにちがいない。自然の猛威をもう忘れたのかと。(了)



 (編集者注・これは週刊現代連載「わき道をゆく」の再録です。引用文献は『中西悟堂 かみなりさま』(日本図書センター)、『愛鳥自伝』(平凡社ライブラリー)、『自伝抄Ⅶ』(読売新聞社)です)