俗世間から隔離されたフランス アルプス山脈に建つ、厳しい戒律を何世紀も守り続けてきた”グランド・シャルトルーズ修道院”。監督が撮影を申し込んで16年後に、音楽や照明を使うことなく撮影することを許され、監督自らが6ヶ月間そこに留まり撮られたドキュメントは大きな感動を私に与えてくれました。
この映画を見終わって、この修道院が存在し、そこで沈黙の内に神とつながり、そこに祝福と愛があると確信されていることが画面から伝わってきます。
世界がどうあろうと、どんなに騒がしくなろうと、この修道院が作る平和の礎は大きい。
監督の フィリップ・グレーニングの言葉か印象に残ります。
容易なことではない。ほとんど会話がなく、通常、映画を成立させるべき言葉からも出来るだけ離れ、考えられる制作プロセスがまったく通用しない作品を作り上げるというのは、本当に容易ではない。
言葉を使わず、通常の制作論理や劇作法、映画監督としての自分の能力からもかけ離れたところで映画を作るというのは容易ではない。修道院を映像化するのに、映画を修道院そのものにしてしまう以外にどんな方法があるだろうか?どうだろう?
今でもなお、正解は分からない。言えるのは、やれば出来るということだけだ。この作品は、ある時期からうまく形作られていった。
ナレーションもなく、あの空間だけで、映画が修道院そのものになった。雲のようにつかみどころのない映画、私が最初にこの作品のアイデアを思いついた時、こう表現していた。そしてこの考えは、1984年に私が初めてカルトジオ会の修道士に会った時も、1年後に、彼らに「今はまだ早すぎる、10年か13年後であれば」と言われた時も、2000年に、修道院から「まだ興味を持ってくれているなら」と電話をもらった時もまったく変わっていなかった。
そうだ。そうなんだ。雲とは何か?その答えは難しい。雲には様々な種類がある。どれもまったく違っているが、その一つ一つどれもが正しい。間違った雲など見たことはない。
結局、私は6ヶ月近くをグランド・シャルトルーズ修道院で過ごした。修道院の一員として、決められた日々の勤めをこなし、他の修道士と同じように独房で生活をした。この、隔絶とコミュニティーの絶妙なバランスの中で、その一員となったのだ。
そこで映像を撮り、音を録音し、編集した。それはまさに、静寂を探究する旅だった。
