そろそろ、冬の支度をしなければと、洋服を入れ替えたり、暖房器具を用意したりと、今年の秋の長さを利用して楽しみながらゆっくりとしたペースで進めています。
昨年、友人から貰ってきた火鉢を使いたいと出してきました。
内径が25㎝足らずの小振りな火鉢。友人の所では、手あぶりとして使われていたのでしょう。ケヤキの木目が綺麗に出ているこの火鉢の傍らに座して、炭の火のやんわりとした暖かさを味わう。
浮かんでくる映像は、友人の家庭の映像ではなく、昔の作家達の写真です。書き物机を前にして座し、片手はこんな火鉢に手をかざしているという、絵になる風景です。
この写真の時には、鉄鍋をかけて、昼のお粥を炊きました。じっくり、ゆっくりと時間をかけて。味もさることながら、時代から離れた雰囲気が醸し出されて嬉しい時でした。
寐る前に、埋み火(灰に埋めた炭火)しておきますと、次の朝、掛けておいた湯沸かしの湯が温かく、炭が未だ消えずに残っているのにはびっくり。
広辞苑の埋み火を見ますと、新古今和歌集の
「なかなかに消えは消えなで埋み火の いきてかひなき 世にもあるかな」 権僧正永縁
ー現代語訳ー(早く消えて欲しいのに、中々灰の中で消えそうで消えない埋み火のように、生きている甲斐のない私はこの世の中に埋もれて生き長らえています。)
と言う詩が引用されていました。現代語訳を読みながら、まるで現代の世相を映していると。
エコロジーの立場から見ると、木が成長時に取り入れたCO2を燃焼時にはき出しているのだから、環境に優しいエネルギー源のはずですが。そうなんでしょうか?私としては、一酸化炭素中毒に注意しなければ。

