大炊御門大路跡。中央の高まりが築地塀跡で、その右に犬行。側溝、路面の順で展開する=令和6年6月、京都市中京区
京都を説明するときに度々登場するのが、「碁盤の目」という言葉です。中国の都城を参考に東西、南北に規則正しく交差する道路で区画された都市景観がそう言わせているのでしょうが、当初は法令通りにつくられた道路も、朝廷の権威が衰退するにつれて当初の決まり事もどこかに消え、いろんな変遷を繰り返しながら現在の姿になっているのです。その変遷を発掘調査の成果を踏まえながら紹介していきます。
■都の道路
一昨年、京都市中京区、平安京でいえば左京二条二坊十町の一角を発掘調査したところ、遷都間もない9世紀前半につくられた東西道・大炊御門(おおいみかど)大路(現・竹屋町通り)跡が側溝や塀などとともに出土しました。当時の道路は、人や車が通る路面を中央に、路面の両端に沿った側溝、さらに側溝の外に置かれた空間地「犬行(いぬばしり)」を挟んで、宅地を囲う塀で構成されていました。遷都以来、開発が繰り返された平安京でもあり、遷都当初の京内の開発の様子が具体的にわかる遺構が出土するのは極めて珍しいケースだといえます。
調査地は天皇の住まいや役所が集まる平安宮の東端に隣接し、昔の百科事典「拾芥抄(しゅうがいしょう)」によると、当初は桓武天皇の子、賀陽(かや)親王の邸宅(九町説も)にあたり、のちには平等院を建立した藤原頼通の宅地にもなっています。
今回の調査では、路面はわずかに北端が顔をのぞかせた程度でしたが、道路の北側溝跡は幅0・9㍍、深さ0・15㍍、北築地塀跡は黄色い土を盛った土台部から幅1・9㍍と判明し、犬行の幅は1・0㍍と確認されました。
当時の法典「延喜式」の中で大路・小路の規格を定めた「京程」には、大炊御門大路は全幅が30㍍と定められています。このうち路面の幅は22・8㍍、側溝1は・2㍍で、犬行1・5㍍、全幅の半分のスケールで定められている塀は0・9㍍(全幅1・8㍍)でした。
この結果、犬行の誤差が最も大きく、側溝や築地塀でも多少の誤差が出ていたことがわかりましたが、そうならば造営当初から掟破りが行われていたようにもみえます。
■法律で定められた規模
詳しくみると、塀の位置が規定より約60㌢南にずれていました。誤差の範囲なのでしょうが、邸内の敷地をやや広めにとり、その分、犬行と側溝の幅を狭めることで帳尻を合わせ、路面の北端の位置を10㌢ほどの誤差にとどめていたことがわかります。
こうしてみると、平安京を築くにあたり、路面とそれに付随する施設の規格は法律で定めながら、犬行の空間内だけは自由な使い方ができたとも考えるることができます。120㍍四方をひと区画とし、土地を正確に班給するのに最も重要なことは、正確な位置に路面を走らせることだということになります。
このため当時、路面や道路側溝の設置・管理には国がかかわりますが、築地塀の設置・管理は朱雀大路など一部を除いて土地の所有者が行っていたといいます。この遺構では、都を造営する際に必要な条件・意図や正確性、さらに、その目的をきっちりと果たそうとした関係者の熱意を垣間見る思いがします。
都城の範囲を飛び出した一条大路の跡。粒石などを入れて路面を固めている=平成29年1月、上京区
■侵食の跡
ところが、遷都から数十年経た頃から規程外の開発が始まります。京内で最北端の東西道・一条大路が東京極(現・寺町通り)を越えて鴨川の方向に向かった跡が出土しています。周辺には藤原良房(804❘72年)や藤原道長(966❘1028年)という藤原氏の全盛時代を築いた権力者の邸宅・寺院が造営されて、その周辺が開発されたのに伴い延長された可能性があります。
さらに院政期の11世紀後半以降、鴨(賀茂)川東岸に天皇・中宮発願の寺院が続々建立され、二条大路は鴨川を越えます。五条大路(現・松原通り)も平家や鎌倉幕府の拠点となった「六波羅」とつなぐ幹線道として鴨川を渡り、大路の規格も保ちますが、幕府の滅亡後すぐに道幅は狭まります。
七条大路跡。調査地の壁面に補修の歴史が刻まれている=平成30年8月、下京区
七条大路跡。右端の路面上に杭が侵食する様子がうかがえる
道を侵食し、宅地・農地化することを「巷所(こうしょ)」と呼びます。巷所は12世紀ごろから、大して人通りもないのに不必要に幅の広い道路で始まります。
七条大路跡では面白い跡が見つかっています。七条大路は京の生活を支えた市場や山陰道につながる重要な物流ルートで、現在まで規模がほぼ維持されてきた道路の一つです。
このため、調査では平安後期の11世紀末から鎌倉末期の14世紀初めまでの間に約20回にわたり路面の補修を繰り返してきた跡が出ています。一方、鎌倉時代後半の13世紀末から14世紀初めにかけて、数十㌢ながら道路を侵食して宅地を広げた跡も出ています。重要道路で役人の目が厳しい中、周辺の住民は監視をかいくぐり、わずかな土地を巡って涙ぐましい攻防を展開していたのです。
西堀川小路跡。川の両側に路面が走る=令和6年6月、中京区
■隔世の感
そんな中で最近、一番印象に残った成果といえば、西堀川小路跡が川とともに側溝、築地塀、犬行の跡がそのままの形で出たことでしょうか。堀川小路は京の東西にそれぞれ置かれた運河を持つ道路で、現在の二条城前を通る堀川通りは東堀川小路にあたります。今回出土した西堀川小路は現在の西大路通りの東側に通っていた南北道路でしたが、今は面影すら見ることはできません。
全幅は24㍍と大路と同じ規模です。真ん中に流れる幅8㍍の川の両側に幅8㍍の道路が通っていましたが、10世紀に発生した洪水で埋まったあとは再生することなく、そのままパックされて残っていました。川沿いには護岸のための杭列がずらりと並んでいました。東西道路の川から遠い道端から荷車の通ったことを示す轍(わだち)の跡が生々しく当時の往来の様子を伝えています。
それにしても川の深さが60㌢程度と意外に浅いことに驚きました。当時の舟は底が平たいため、通行は可能でしょうが、台風クラスの大雨が起きれば、もたないでしょう。現在の堀川通りも当初は西堀川小路と同じ規格だったわけですから、よくここまで残ったということになるのでしょうが、周辺を含め現在の姿をみると、やはり隔世の感を覚えます、



























