指月城跡で出土した高層建造物のものとみられる地下式礎石=京都市伏見区
豊臣秀吉が京都・伏見に最初に築いた指月(しげつ)城=京都市伏見区=の天守台想定地近くで、令和6年末から7年始めにかけて発掘調査を行ったところ、指月城跡として初の本格的な建物遺構が出土しました。高層建築とみられ、筆者が現役記者だった昨年6月に紙面で報じたところですが、今回はその番外編ともいえるエピソードを紹介します。
■秀吉の指月城跡から
出たてホヤホヤの金箔瓦
伏見城は、秀吉が甥の秀次に関白職を譲った後の文禄2(1593)年に築いた屋敷が始まりとされています。ところが、地震で倒壊後に近くの木幡(こはた)山に城を移す(木幡山伏見城)と、今度は関ケ原の戦いの前哨戦で焼失。その後、徳川家康が再建しています。
今回の調査地は秀吉期の最初の伏見城「指月城」の南東隅にあたり、天守台の存在が想定されている重要地点でした。住宅の新築に伴い、市文化財保護課が6年12月から1カ月余りかけ約90平方㍍を調査しました。
この調査での最大の成果は、何といっても、天守ではないものの、それに付随するような指月城期の本格的な建造物が初めて見つかったことです。
高層の建築跡でみられる地下式礎石と呼ばれる遺構で、建物の柱を支える礎石が地上から1㍍以上深い地中で見つかりました。地下式礎石は地震などに強く、ここでは矢倉や3層程度の住宅などが予想されています。
■大切な人のために
地下式礎石の近くから出土した地業跡。丁寧に積み重ねていました
調査期間はわずか1カ月余りでしたが、週一回以上のペースで現場に通いました。天守の想定地に近いということもありますが、遺構の解釈が翌日には変わることを何度も体験したこともあるからでしょう。
今回は2、3度ほど訪ねた時の話ですが、わずか1カ所でしたが、秀吉時代に行われた地業の跡から何か予兆めいたものが感じられました。
地業とは、かなり重い建物を支えるために行われる地盤改良工事のことで、寺院や宮殿などの基壇、あるいは礎石を伴う柱の跡でみられます。地下式礎石の建物跡から近い所でしたが、異なる建物だと思っています。
直径2・7㍍、深さ0・5㍍の不整円形の穴の中で、小石混じりの土を厚さ10㌢程度入れては突き固める作業が繰り返されていました。
丁寧に土が積み重ねられた跡は遺構を断ち割った断面に層として現れます。直線的な横縞模様は城の地業とは思えない繊細さで、「大切な人のために作業しているのだろうな」と感じさせる遺構でした。
大切な人は秀吉のこと。まだ断定はされていませんが、指月城の中心区画だとする、ひとつの根拠にもなるでしょう。
■一流はどこまでも
指月城の遺構を見てふと思い出したのが、西寺・五重塔跡=南区=の地業のことでした。西寺は平安京の玄関口・羅城門の東に立つ東寺(教王護国寺)に対し、西に存在した国営寺院です。
塔跡は令和元年の調査で見つかりました。ほぼ正方形の建物跡から見つかった柱は礎石を伴い、地盤改良の際は礎石の下を掘って土を入れ、突き固める壺地業と呼ばれる作業が行われていました。
調査は翌年まで続いたのですが、その中で塔の中心の柱を支える心礎周辺だけが、釈迦の骨「仏舎利」を納める容器を安置するためか、周囲の柱で行われた地業よりも繊細、丁寧に整備されていました。
それは宮殿跡などの重要建造物で行うレベルで、土や粘土などを交互に入れては突き固める「版築(はんちく)」と呼ばれる工法を採用し、横縞状に現れる土層の厚みが周囲の10~15㌢に対して心礎部分だけは5㌢前後と、より薄く積み重ねる仕事ぶりでした。
院政期の地業跡=左京区
さらに、もうひとつ紹介すると、平安時代後期の院政期と呼ばれる時代、鴨川の東で天皇や上皇・皇族が寺院・御所を構えた白河街区の聖護院周辺=左京区=からも見事な地業跡が見つかっています。
建物の正体は不明なのですが、拳大の石を全面に敷いた層と土の層がミルフィーユ状に何層も重ねられた作業ぶりには、当時の権力者の権勢と手掛けた人の思いがしのばれます。
高層で、太い柱、大量の瓦を使った権力者の建造物は相当に重たかったことでしょう。そして、一流の建造物を支える地盤にも工人のブライドがかけられていたのです。


















