指月伏見城の堀跡から出土した金箔瓦。黒漆の上から朱漆を塗り直している=京都市伏見区
豊臣秀吉が京都・伏見に築いた初期の伏見城「指月(しげつ)伏見城」(指月城)のうち、城の北端を東西方向に延びる北堀と城内を南北方向に延びる内堀との接合部(南西角)が出土しました。指月城については絵図など当時の様子が具体的にわかる史料がなく、発掘調査の結果や地形をもとに城の姿が復原されていますが、2本の堀がほぼ想定通りに出土したことで復原案の精度の高さが改めて確認できました。また遺構から出土した金箔瓦の中には、聚楽第など同時期に廃された城から持ち出し、再利用したものが含まれていたこともわかりました。いずれにしても、今後の指月城の復原に貴重な材料になりそうです。
秀吉は朝鮮に出兵した文禄の役の講和交渉で来日した明の使節を迎え入れるため、巨椋池(おぐらいけ)を一望できる指月の丘に建てた隠居所を土台に文禄3(1594)年、指月城を築きますが、完成直後の大地震で倒壊します。このため史料も少なく、幻の城ともいわれてきました。範囲は、東西が現在の国道24号から舟入とされる宇治川から内陸に向けて人工的に掘削された窪地までの約500㍍、南北が現在の立売通りから宇治川北岸までの約250㍍の長方形で、城内には北堀とつながり、南北方向に延びる内堀が2本存在していたとみられています。
㊤は発掘現場。㊦は北堀と内堀の接合部(京都市提供)
今回は現在の立売通りに沿うとされる北堀の南壁と、2本の内堀うち東の堀の西壁の接合部が検出することを想定し、民間調査会社「文化財サービス」=京都市南区=が昨年6月から7月にかけて調査しました。この結果、両堀の接合部が出土しました。このうち内堀は、平成27年、今回の調査地から南約150㍍で行われた調査で出土した南北堀の延長線上にあたり、地山を垂直に近い急角度で掘り下げていました。
平成27年の調査で出土した堀
これを過去の調査と合わせると、北堀の幅が約27㍍になることが初めて確認できました。内堀の幅が約30㍍だったことから、北堀もほぼ同規模だったようです。ただし堀の深さについては、調査地の東西幅が狭く、深く掘りすぎると軟弱な壁面が崩れる恐れがあるため、突き止めることはできませんでした。
また今回注目されるのは、保続状態が良好な金箔瓦の破片が75点も出土したことです。中には一度金箔を張り付けた瓦に再び漆を塗り、金箔を張り直した例も数多く含んでいました。聚楽第と同じ模様の瓦がいくつか確認されたことことから、ほぼ同時期に破却された聚楽第からも持ち込まれたのでしょう。秀吉が側室、茶々の産所に使った古い淀城の瓦も再利用したことでしょう。こちらも廃城時、指月城に天守や矢蔵を移築した際に一緒に運んできたことが推測されます。
今回の調査で出土した金箔瓦(上が軒丸瓦、下が軒平瓦)
いずれにせよ、史料の少ない中で、これまでの調査をもとに描いてきた指月伏見城の復原案の精度の高さが今回の調査で証明されたことになりました。一方、一部ながらこれまで不明だった北堀の規模がわかり、内堀との接続点もはっきりしたことで、多少の修正が加えられることにはなるでしょう。




































