五間堀の発掘現場=今年3月、京都市伏見区

 

 江戸時代、京都防衛の拠点として桂、宇治、木津の3川合流地に築かれた淀城の南端を流れていた五間堀(ごけんぼり)の続報です。(初報は7月3日)

 堀の遺構は昨年から今春にかけて京都市文化財保護課が行った発掘調査で姿を現わしたところですが、その後、詳しく見ていくうちに、堀に沿って流れる木津川の氾濫で水や土砂が堀の中に流れ込み、その度に両者間を仕切る堀の南堤の上に土が盛られる一方、武家屋敷の並ぶ堀の対岸(北堤)は何ら対策を講じることなく、幕末まで被害を受けずに存続していたことがわかりました。水の管理が行き届いていた証拠ともいえそうですが、遺構から次第に身分に厳しい武家社会の悲哀を感じさせる姿も見えてきました。

 

修復の過程がうかがえる五間堀南堀の断面

 

木津川の護岸=今年3月

 

■度重なる水害

 淀城は江戸時代前期に築かれました。五間堀は、武家屋敷が並ぶ「外高嶋」と呼ばれる城内の区域と、木津川の北岸に置かれた下級武士の住む長屋が並ぶ区域の間を流れていた堀で、現在も一部が水路として使われています。

 調査地周辺は、巨椋池(おぐらいけ)に通じる城の東から取り入れた水を外堀や中堀などを経て西の桂川へと流す排水口近くにあたり、絵図には水門や番所、舟入りなどが描かれています。

 昨春からの調査では、当初の堀の幅は約21㍍、深さは約1㍍だったことが確認されました。護岸は江戸時代の通常の城でよくみられる加工石を使った石垣ではなく、緩やかな勾配面にチャートや頁岩(けつがん)など表面の粗い石を乱雑に張り付けたもので、外観より治水を重視していたことがわかりました。

 ところが、城を築くのに伴い城のすぐ南に付け替えた木津川がたびたび氾濫を起こしては、水と土砂が五間堀との間を仕切っていた南の堤防を越え、堀の中に入り込んだ跡が今回の調査で見つかりました。

 記録によると、1700年ごろから幕末までの間、主なもので5回ほどの洪水が認められています。南堤の上には足軽ら比較的身分の低い家臣らの長屋が並んでいましたが、何度となく水の被害に遭ったことでしょう。

 

修復の模式図。➀が完成期、④が幕末期、②と➂では水対策で南堤のみを高くする様子を説明(京都市文化財保護課作成)

 

 

■堤防のかさ上げ

 とはいえ、淀藩の方も手をこまねいていたわけではありません。さらに南堤に土を盛って高くし、側面に木杭を打つなどして護岸を補強した痕跡が遺構の断面から確認できました。修復回数も5回以上はあるとみられます。

 五間堀の底も木津川から流入した土砂がたまり、時が経つにつれて堀の幅も当初より狭まり、川底も上がっていました。ところが、北堤には水害を受けた跡はなく、土盛りをした跡もみられません。堀が完成した江戸時代前期は両岸とも同じ高さだったのですが、最終的には南堤の高さは北堤より2㍍上回っていました。

 北堤の上には「外高嶋」と呼ばれる、比較的身分の高い武士の屋敷地や城の庭園がありましたが、足軽の住居地となっていた南堤が北堤側の防波堤になっていたようです。

 

淀藩家老屋敷跡=令和3年12月

 

ろうそく石

 

■水対策専門の大名を起用

 時代が進むにつれて堀の南の堤防が高くなったとはいえ、堀の底に土砂がたまっていったことで、堀に流すことができる水の量も以前よりは少なくなっていったはずです。そうなると、台風でも来れば、木津川の氾濫に関わりなく、当初から高さの変わらない北の外高嶋側も水害に遭っても仕方がないと思うのですが、その跡が見られない。どうしてなのでしょうか。

 これには、水門と番所が果たした役割が大きかったと思います。五間堀の排水口に水門が設けられていたということは、城内には五間堀の取水口のほか複数個所に水門や番所があり、水量を管理していたこが想像できます。

 さらに、18世紀に入り城の周辺で水害が顕在化すると、幕府が下総佐倉藩主の稲葉正知を淀藩に移動させたことも要因のひとつだといえます。佐倉では印旛沼周辺に広がる低湿地を抱えていたことから、水への対処、湿地の開発経験が豊富だったと思われます。

 そういえば、以前の調査で出土した、軟弱な砂上に建てられていた淀藩の家老屋敷跡のことを思い出しました。砂を外に漏らさないよう石垣で囲んで頑丈に固めた上に屋敷は立っていました。砂も外に漏らさなければ土以上に頑丈で、地震にも強い地盤になります。これは「砂地業」と呼ばれ、現在でも行わている工法です。

 さらに建物下の砂地の中からは、建物の柱を支える「ろうそく石」と呼ばれる四角い石柱が複数個所で見つかりました。深いところにある頑丈な地層と地上の建物とをつなぐ細長い支柱のようなもので、砂地の多い関東でよくみられるといいます。

 こういう工法を身をもって知っていることは水際の城を管理していくうえで強みになります。やはり適材適所ということでしょう。

桂川西岸に出現した、戦国期の巨大堀に囲まれた広大な方形区画群=4月、京都市伏見区

 

 豊臣秀吉が側室、淀君の産所とした旧淀城(淀古城)の想定地周辺から、戦国期以来使われている深さ2㍍以上のV字形の堀を豊臣期に半分程度埋めて箱形とし、再利用していた跡が、京都市伏見区の桂川西岸から出土しました。淀は平安京の外港として平安時代から栄え、戦国期には数々の争奪戦が繰り返されてきた地。この堀が秀吉期の城の一部に含まれるかは不明ですが、豊臣期の遺構が現在の河川の西岸にも及ぶことが確認されたことは、史料も少なく、実態が不明だった旧城の解明に向け、重要な手がかりになりそうです。

 発掘調査の現場は、京阪電鉄・淀駅と阪急電鉄・西山天王山駅の間を流れる桂川に架かる宮前橋の上流西岸で、調査は昨年秋から今年春にかけて京都市埋蔵文化財研究所が実施しました。

 調査地は過去の調査や古い地図などから、現在は河川が通る部分も当時は陸地部で、当時の桂川は現在から東の淀駅近くを流れ、宇治川、巨椋池(今は埋め立てられています)と合流した北側に城が築かれていたと考えられています。現在、石垣が残る淀城は現状に川を付け替えた江戸時代前期に築かれたもので、宮前橋の下流東岸にあたるのに対し、戦国期の城はその北一帯に広がり、「北城堀」「南城堀」「城の内」など今も残る地名は、当時の名残ともいわれています。

V字形の堀。一度落ちると、抜け出すのは難しそう=3月撮影

 

 今回の調査結果によると、堀に囲まれた空間は南北260㍍、東西80㍍の範囲で確認されました。堀と堀の間から道路跡も出土しています。遺構から出土した土器などから16世紀初めに設けられ、同後半まで維持されていたようです。

 もっとも広い区域の堀は南北が長さ約100㍍、最大幅5・3㍍、深さ2・7㍍。堀の断面は急こう配のV字形で、一度落ちると這い上がれない、防御性の強いものになっています。さらに堀の東沿いで土塁が築かれていた跡が確認できました。

 東西の堀も同じ規模ですが、現在の川の中に遺構が入り込み、途中で切れていたので、実際の長さは不明です。区画内にどんな建物が配置されていたかもわかりません。江戸時代の桂川の付け替え工事の際に削られたとみられます。

 調査地周辺は「淀津」と呼ばれ、瀬戸内海と平安京をつなぐ、水上交通の拠点として平安時代から栄えています。戦国期には京都防衛の重要拠点になり、多くの武将が城を巡り、争奪戦を繰り返しています。

 古い記録では、室町幕府で歴代管領職を務める細川宗家(京兆家)の当主、氏綱や、畿内で強大な権力をふるった三好三人衆のひとり、岩成友通らが拠点に使っています。天正10(1582)年の山崎の戦い前には明智光秀が城を改修した記述も残ります。

雨水を満々にたたえた堀=5月撮影

 

 調査地の西隣の乙訓・西岡地域には当時、素掘りの堀を巡らせた物集女(もずめ)城(京都府向日市)など、在地土豪が築いた城館が複数存在していたことで知られていますが、区画の広さはいずれも70㍍四方を基本とし、堀の幅も4㍍未満ということから、淀津の城の規模の大きさがうかがえます。

 このV字の堀も、秀吉が約5万人を集めて城を改築した天正16(1588)年ごろ、半分程度の深さまで埋められます。断面は深いV字から、防御性の弱い、浅い箱形に変わります。城か家臣の屋敷の区画に使われた可能性はあります。過去の調査では、付近から秀吉の城の特徴とされる金箔瓦の破片が1点出土しています。堀が完全に埋まるのは江戸前期、旧城の南に新たな城が築かれたころです。

かつての調査で出土した金箔瓦=昨年2月撮影

 

 このほかV字の堀を持つ区画から南約70㍍離れた調査地南端では、規模はV字形の堀より小ぶりで断面が箱形をした堀に囲まれた区画も出土しています。区画自体の方角はやや西方向にふれ、時代もV字堀の区画よりやや古いようです。

 秀吉期の淀城には天守や矢倉があったことを示す記述は残りますが、実態のわかる史料はありません。しかし今回の調査で城に伴う開発が現在の川の西岸まで及ぶことがわかりました。また堀をV字形から箱形に変えた時期は、秀吉が四国、九州を平定した後にあたり、長く続いた戦国期の終点がようやく見えてきた当時の世相を反映したものだとも言えそうです。

秀吉が初めて京都に築いた城「妙顕寺城」の堀の遺構。中世の居館レベルの規模だった=京都市中京区(今年6月撮影)

 

 羽柴(後の豊臣)秀吉が大坂城の築城と並行して京都の拠点として築いた妙顕寺城の堀跡が、京都市中京区の集合住宅建設予定地から出土しました。堀の幅は約5㍍と、秀吉が京都にこののち築いた聚楽第に比べて小さく、本格的な城というよりは、居館程度の規模にとどめていた可能性が高いことがわかりました。文献から堀や天守などの存在はわかっていましたが、具体的にわかる資料に乏しかっただけに、全体像の解明に大いに役立つ発見になったといえそうです。

 妙顕寺城は本能寺の変後に天下を狙う秀吉が最大のライバル、柴田勝家を倒した天正11(1583)年、法華宗寺院、妙顕寺を移転させて築いた城です。範囲は東西が現在の油小路通-西洞院通間の約120㍍、南北が二条通-御池通間の約250㍍とされています。調査地では、城跡や城内に取り込んだ東西道・押小路(幅12㍍)のほか、南北道の油小路(同)が現在地より東を通っていた、平安京遷都時の位置での出土が見込まれ、調査は民間会社の「文化財サービス」(京都市)が3月から8月初旬にかけて実施しました。

 

手前が妙顕寺の堀。左上に城の堀が見える

 

 出土した妙顕寺城の堀は城の西端を示す南北の堀とみられ、規模は幅約5㍍、深さ約1・3㍍。東西壁面は急こう配で、石垣を伴わない素掘り。堀の西から出土した油小路の東側溝を転用して幅を広げて設けたとみられます。路面も東部が削られ、城の西端に接した道路の幅は通常よりやや狭まっていたようです。

 また城の堀の東約6㍍から妙顕寺当時のものとみられる堀跡が出土しました。幅は約3・6㍍、深さは約1・3㍍と城の堀よりひと回り小さく、城の建設時に埋められたようです。このほか、秀吉期の金箔瓦の破片が1点出土しましたが、妙顕寺城に使われていたかは特定できませんでした。

 

遷都時の位置から出土した油小路跡(今年4月撮影)

 

金箔瓦

 

 妙顕寺城の建設は天正11年9月から始まり、文献などから天守や主殿、庭を持ち、堀は下京の町衆が掘ったとの記述が残っています。ふだんは京都所司代の前田玄以が管理し、秀吉が入京した際に宿所として使っていたとされ、12年10月に秀吉が入城しています。14年に聚楽第が完成すると廃城となり、15年に堀も埋められますが、その際、3分の1程度は残り、完全になくなるのは江戸時代に入って間もないころのようです。

 聚楽第の堀の幅が20㍍後半~40㍍だったのに対して妙顕寺城は5㍍と、物集女城跡(京都府向日市)など、それまでの居館と同じ規模だったことが今回の調査で確認できた結果、妙顕寺城が聚楽第の築城を念頭に置いた仮住まいレベルの施設だったことがわかりました。

 妙顕寺城関連の遺構としてはこれまでに池や溝、舟入などの跡が出土する一方、文献に書かれている天守や主殿などの主要施設跡は今回も見つからなかっただけに、全容解明に向けては今後の調査に期待がかかります。

指月伏見城の堀跡から出土した金箔瓦。黒漆の上から朱漆を塗り直している=京都市伏見区

 

 豊臣秀吉が京都・伏見に築いた初期の伏見城「指月(しげつ)伏見城」(指月城)のうち、城の北端を東西方向に延びる北堀と城内を南北方向に延びる内堀との接合部(南西角)が出土しました。指月城については絵図など当時の様子が具体的にわかる史料がなく、発掘調査の結果や地形をもとに城の姿が復原されていますが、2本の堀がほぼ想定通りに出土したことで復原案の精度の高さが改めて確認できました。また遺構から出土した金箔瓦の中には、聚楽第など同時期に廃された城から持ち出し、再利用したものが含まれていたこともわかりました。いずれにしても、今後の指月城の復原に貴重な材料になりそうです。

 秀吉は朝鮮に出兵した文禄の役の講和交渉で来日した明の使節を迎え入れるため、巨椋池(おぐらいけ)を一望できる指月の丘に建てた隠居所を土台に文禄3(1594)年、指月城を築きますが、完成直後の大地震で倒壊します。このため史料も少なく、幻の城ともいわれてきました。範囲は、東西が現在の国道24号から舟入とされる宇治川から内陸に向けて人工的に掘削された窪地までの約500㍍、南北が現在の立売通りから宇治川北岸までの約250㍍の長方形で、城内には北堀とつながり、南北方向に延びる内堀が2本存在していたとみられています。

 

 

㊤は発掘現場。㊦は北堀と内堀の接合部(京都市提供)

 

 今回は現在の立売通りに沿うとされる北堀の南壁と、2本の内堀うち東の堀の西壁の接合部が検出することを想定し、民間調査会社「文化財サービス」=京都市南区=が昨年6月から7月にかけて調査しました。この結果、両堀の接合部が出土しました。このうち内堀は、平成27年、今回の調査地から南約150㍍で行われた調査で出土した南北堀の延長線上にあたり、地山を垂直に近い急角度で掘り下げていました。

 

 

平成27年の調査で出土した堀

 

 これを過去の調査と合わせると、北堀の幅が約27㍍になることが初めて確認できました。内堀の幅が約30㍍だったことから、北堀もほぼ同規模だったようです。ただし堀の深さについては、調査地の東西幅が狭く、深く掘りすぎると軟弱な壁面が崩れる恐れがあるため、突き止めることはできませんでした。

 また今回注目されるのは、保続状態が良好な金箔瓦の破片が75点も出土したことです。中には一度金箔を張り付けた瓦に再び漆を塗り、金箔を張り直した例も数多く含んでいました。聚楽第と同じ模様の瓦がいくつか確認されたことことから、ほぼ同時期に破却された聚楽第からも持ち込まれたのでしょう。秀吉が側室、茶々の産所に使った古い淀城の瓦も再利用したことでしょう。こちらも廃城時、指月城に天守や矢蔵を移築した際に一緒に運んできたことが推測されます。

 

今回の調査で出土した金箔瓦(上が軒丸瓦、下が軒平瓦)

 

 いずれにせよ、史料の少ない中で、これまでの調査をもとに描いてきた指月伏見城の復原案の精度の高さが今回の調査で証明されたことになりました。一方、一部ながらこれまで不明だった北堀の規模がわかり、内堀との接続点もはっきりしたことで、多少の修正が加えられることにはなるでしょう。

㊤淀城の五間堀跡(東から撮影)。左から南斜面、底、北斜面を経て外高嶋

㊦調査前の復元図(京都市文化財保護課提供)。五間堀は17区から出土しています

 

 江戸時代初期の17世紀前半、京都防衛の拠点として交通の要衝に築かれた淀城の跡から、当時描かれた絵図で「五間堀(ごけんぼり)」と呼ばれた巨大な水路跡が出土しました。周囲の景観も含め、ほぼ絵図通りの位置でしたが、護岸が当初は想定されていた急斜面の法面を石垣で保護したものではなく、緩やかな勾配面にゴツゴツした石を張り付ける工法を採っていたことが確認されました。調査した京都市文化財保護課は、城としての外観より治水を重視した可能性があると指摘しています。

 淀城は戦国時代、桂、宇治、木津の3川が合流する交通の要衝に築かれた城です。16世紀末には豊臣秀吉が側室、淀殿の産所として使いますが、徳川幕府が廃城にすると、その下流域に京都防衛の拠点として新たに城を築き、現在も本丸の石垣などを見ることができます。

 今回は国の進める河道掘削工事に伴い、昨年4月から今年3月まで、徳川期の城の本丸跡の南西にあたる桂川河川敷の約6千平方㍍を調査したところ、当時は「五間堀」と呼ばれた巨大な水路跡が出土しました。

南から撮影。奥が外高嶋

 

 五間堀は、桂川など周囲の河川に接続し、城内の外堀や中堀へとつながっています。現在も河津桜の名所で知られる淀水路が当時の流れを引き継いでいるといわれています。今回調査で出土したのは桂川との接続付近です。

 堀跡は想定より北約150㍍で出土しました。幅10~21㍍、深さ2・5~3・0㍍。五間堀は基本的には東西方向に流れていますが、調査地ではやや南方向に振れていたことがわかります。

 堀の壁面は通常の城でみられるような、急斜面の法面をきれいに加工した石で保護する形ではなく、緩やかな斜面にチャートや頁岩などの表面の粗い石を張り付けていました。護岸石の下層からは古い時代の護岸石が出土し、明治時代初期の廃城までに少なくとも3回程度改修されていたことがわかりました。崩落防止用の杭列も出土しました。

堀の改修跡。古い下層の石の方がおお大きい

 

 このほか、五間堀の北沿いに整備された武家屋敷街「外高嶋」の跡が一部出土しました。堀の法面上に沿って出土した、小石を敷き詰めた平坦面は道路跡とみられます。道路跡の北端に沿って平らな面を上に向けた石が東西に並んだ跡も出て、塀のような遮蔽物が想定されています。

 今回の結果について京都市文化財保護課は「五間堀の護岸は近くの桂川沿いの調査でみられる当時の工法と近似していて、治水機能を重視していたことが推測できます。城下町の詳細な復元や桂川との関係を考えるうえで重要な成果となりました」などと評価しています。

 

 

 

 大炊御門大路跡。中央の高まりが築地塀跡で、その右に犬行。側溝、路面の順で展開する=令和6年6月、京都市中京区

 

 京都を説明するときに度々登場するのが、「碁盤の目」という言葉です。中国の都城を参考に東西、南北に規則正しく交差する道路で区画された都市景観がそう言わせているのでしょうが、当初は法令通りにつくられた道路も、朝廷の権威が衰退するにつれて当初の決まり事もどこかに消え、いろんな変遷を繰り返しながら現在の姿になっているのです。その変遷を発掘調査の成果を踏まえながら紹介していきます。

■都の道路

 一昨年、京都市中京区、平安京でいえば左京二条二坊十町の一角を発掘調査したところ、遷都間もない9世紀前半につくられた東西道・大炊御門(おおいみかど)大路(現・竹屋町通り)跡が側溝や塀などとともに出土しました。当時の道路は、人や車が通る路面を中央に、路面の両端に沿った側溝、さらに側溝の外に置かれた空間地「犬行(いぬばしり)」を挟んで、宅地を囲う塀で構成されていました。遷都以来、開発が繰り返された平安京でもあり、遷都当初の京内の開発の様子が具体的にわかる遺構が出土するのは極めて珍しいケースだといえます。

 調査地は天皇の住まいや役所が集まる平安宮の東端に隣接し、昔の百科事典「拾芥抄(しゅうがいしょう)」によると、当初は桓武天皇の子、賀陽(かや)親王の邸宅(九町説も)にあたり、のちには平等院を建立した藤原頼通の宅地にもなっています。

 今回の調査では、路面はわずかに北端が顔をのぞかせた程度でしたが、道路の北側溝跡は幅0・9㍍、深さ0・15㍍、北築地塀跡は黄色い土を盛った土台部から幅1・9㍍と判明し、犬行の幅は1・0㍍と確認されました。

 当時の法典「延喜式」の中で大路・小路の規格を定めた「京程」には、大炊御門大路は全幅が30㍍と定められています。このうち路面の幅は22・8㍍、側溝1は・2㍍で、犬行1・5㍍、全幅の半分のスケールで定められている塀は0・9㍍(全幅1・8㍍)でした。

 この結果、犬行の誤差が最も大きく、側溝や築地塀でも多少の誤差が出ていたことがわかりましたが、そうならば造営当初から掟破りが行われていたようにもみえます。

■法律で定められた規模

 詳しくみると、塀の位置が規定より約60㌢南にずれていました。誤差の範囲なのでしょうが、邸内の敷地をやや広めにとり、その分、犬行と側溝の幅を狭めることで帳尻を合わせ、路面の北端の位置を10㌢ほどの誤差にとどめていたことがわかります。

こうしてみると、平安京を築くにあたり、路面とそれに付随する施設の規格は法律で定めながら、犬行の空間内だけは自由な使い方ができたとも考えるることができます。120㍍四方をひと区画とし、土地を正確に班給するのに最も重要なことは、正確な位置に路面を走らせることだということになります。

 このため当時、路面や道路側溝の設置・管理には国がかかわりますが、築地塀の設置・管理は朱雀大路など一部を除いて土地の所有者が行っていたといいます。この遺構では、都を造営する際に必要な条件・意図や正確性、さらに、その目的をきっちりと果たそうとした関係者の熱意を垣間見る思いがします。

 

都城の範囲を飛び出した一条大路の跡。粒石などを入れて路面を固めている=平成29年1月、上京区

 

■侵食の跡

 ところが、遷都から数十年経た頃から規程外の開発が始まります。京内で最北端の東西道・一条大路が東京極(現・寺町通り)を越えて鴨川の方向に向かった跡が出土しています。周辺には藤原良房(804❘72年)や藤原道長(966❘1028年)という藤原氏の全盛時代を築いた権力者の邸宅・寺院が造営されて、その周辺が開発されたのに伴い延長された可能性があります。

 さらに院政期の11世紀後半以降、鴨(賀茂)川東岸に天皇・中宮発願の寺院が続々建立され、二条大路は鴨川を越えます。五条大路(現・松原通り)も平家や鎌倉幕府の拠点となった「六波羅」とつなぐ幹線道として鴨川を渡り、大路の規格も保ちますが、幕府の滅亡後すぐに道幅は狭まります。

 

七条大路跡。調査地の壁面に補修の歴史が刻まれている=平成30年8月、下京区

 

七条大路跡。右端の路面上に杭が侵食する様子がうかがえる 

 

 道を侵食し、宅地・農地化することを「巷所(こうしょ)」と呼びます。巷所は12世紀ごろから、大して人通りもないのに不必要に幅の広い道路で始まります。

 七条大路跡では面白い跡が見つかっています。七条大路は京の生活を支えた市場や山陰道につながる重要な物流ルートで、現在まで規模がほぼ維持されてきた道路の一つです。

 このため、調査では平安後期の11世紀末から鎌倉末期の14世紀初めまでの間に約20回にわたり路面の補修を繰り返してきた跡が出ています。一方、鎌倉時代後半の13世紀末から14世紀初めにかけて、数十㌢ながら道路を侵食して宅地を広げた跡も出ています。重要道路で役人の目が厳しい中、周辺の住民は監視をかいくぐり、わずかな土地を巡って涙ぐましい攻防を展開していたのです。

 

西堀川小路跡。川の両側に路面が走る=令和6年6月、中京区

 

■隔世の感

 そんな中で最近、一番印象に残った成果といえば、西堀川小路跡が川とともに側溝、築地塀、犬行の跡がそのままの形で出たことでしょうか。堀川小路は京の東西にそれぞれ置かれた運河を持つ道路で、現在の二条城前を通る堀川通りは東堀川小路にあたります。今回出土した西堀川小路は現在の西大路通りの東側に通っていた南北道路でしたが、今は面影すら見ることはできません。

 全幅は24㍍と大路と同じ規模です。真ん中に流れる幅8㍍の川の両側に幅8㍍の道路が通っていましたが、10世紀に発生した洪水で埋まったあとは再生することなく、そのままパックされて残っていました。川沿いには護岸のための杭列がずらりと並んでいました。東西道路の川から遠い道端から荷車の通ったことを示す轍(わだち)の跡が生々しく当時の往来の様子を伝えています。

 それにしても川の深さが60㌢程度と意外に浅いことに驚きました。当時の舟は底が平たいため、通行は可能でしょうが、台風クラスの大雨が起きれば、もたないでしょう。現在の堀川通りも当初は西堀川小路と同じ規格だったわけですから、よくここまで残ったということになるのでしょうが、周辺を含め現在の姿をみると、やはり隔世の感を覚えます、

 

平安京跡から出土した将棋の駒。「王将」は最古の例。上の写真が表、下の写真が裏(京都市埋蔵文化財研究所提供)

 

 

 平安時代の将棋で使われた「王将」駒が、京都市中京区の平安京跡から見つかりました。調査を担当した京都市埋蔵文化財研究所は一緒に出土した土器などから、遅くても12世紀中ごろには使われていたとみています。「王将」は将棋の中で最も重要な駒ですが、伝来当初は「王将」の駒はなく、「玉将(ぎょくしょう)」しかなかったようです。「王将」が登場するのは12世紀末とみられていますが、新たに見つかった駒は、それより数十年早く使われていたことがわかる史料になりました。

 現場は、平安京・坊城小路(現在の坊城通り、南北道)沿いの左京四条一坊五町にあたり、現在の阪急電鉄・大宮駅の西にあたります。古い記録では宇多天皇の同母兄、是忠親王の「南院」など平安時代の前期から後期にかけて皇族、貴族の邸宅があった場所とされています。

 今回の調査は令和6年8月から11月にかけて行われました。調査面積は約245平方㍍。このうち将棋の駒は、多くの木片やマダイの骨などを含んだ楕円形の穴(長径0・9㍍、深さ0・3㍍)から出土しました。

 見つかった駒は「王将」と「金将」「歩」の3点。「王将」「金将」の裏は無地、「歩」の裏には「と」と書かれていました。大きさはいずれも最大幅2・2㌢。上に行くほど幅が狭くなる五角形で、長さは2・8❘2・9㌢と誤差はなく、セットだったとみられます。

 一緒に出できた土器皿の形式や、皿が生産してすぐに消費・廃棄されやすい種類だったことから、1140~70年には使われていたとみられています。

 将棋が国内に伝来してきた時期については、古墳時代から平安時代まで諸説あります。最古の例は興福寺旧境内=奈良市=から出土した駒で、「天喜六(1058)年」と書かれた巻物の軸と一緒に見つかっています。ところが「王将」の駒は伝来当初は存在せず、「玉将」が使われていました。興福寺旧境内から出た駒にも「玉将」しか見られません。

 「王将」が出てくるのはそれから約130年後のことで、上清滝遺跡=大阪府四条畷市=で、「寿永二(1184)年」と墨書された木簡と一緒に出土したケースでした。

 今回は一緒に出土した皿の形式から駒の使用時期を割り出していますが、上清滝遺跡出土の駒より数十年早く使われていたということになるでしょう。

 

礎板が出土した柱穴(手前)。底には置かれた礎板が見える

 

坊城小路跡

 

 このほか、今回の調査では坊城小路跡とともに道路沿いに設けられた南北2カ所の柱穴跡(柱間4・1㍍)の底から、比較的重たい建造物を支えた礎板が出土しています。礎板は軟弱で不安定な地盤の中、柱を安定させるために柱穴の底に敷いた板のこと。今回の出土場所が小路沿だったことから、礎板が支えたのは門(通用門ぐらいか?)の柱だった可能性があります。

指月城跡で出土した高層建造物のものとみられる地下式礎石=京都市伏見区

 

 

 豊臣秀吉が京都・伏見に最初に築いた指月(しげつ)城=京都市伏見区=の天守台想定地近くで、令和6年末から7年始めにかけて発掘調査を行ったところ、指月城跡として初の本格的な建物遺構が出土しました。高層建築とみられ、筆者が現役記者だった昨年6月に紙面で報じたところですが、今回はその番外編ともいえるエピソードを紹介します。

■秀吉の指月城跡から

  

  出たてホヤホヤの金箔瓦

 

 伏見城は、秀吉が甥の秀次に関白職を譲った後の文禄2(1593)年に築いた屋敷が始まりとされています。ところが、地震で倒壊後に近くの木幡(こはた)山に城を移す(木幡山伏見城)と、今度は関ケ原の戦いの前哨戦で焼失。その後、徳川家康が再建しています。

 今回の調査地は秀吉期の最初の伏見城「指月城」の南東隅にあたり、天守台の存在が想定されている重要地点でした。住宅の新築に伴い、市文化財保護課が6年12月から1カ月余りかけ約90平方㍍を調査しました。

 この調査での最大の成果は、何といっても、天守ではないものの、それに付随するような指月城期の本格的な建造物が初めて見つかったことです。

 高層の建築跡でみられる地下式礎石と呼ばれる遺構で、建物の柱を支える礎石が地上から1㍍以上深い地中で見つかりました。地下式礎石は地震などに強く、ここでは矢倉や3層程度の住宅などが予想されています。

■大切な人のために

 

  地下式礎石の近くから出土した地業跡。丁寧に積み重ねていました

 

 調査期間はわずか1カ月余りでしたが、週一回以上のペースで現場に通いました。天守の想定地に近いということもありますが、遺構の解釈が翌日には変わることを何度も体験したこともあるからでしょう。

 今回は2、3度ほど訪ねた時の話ですが、わずか1カ所でしたが、秀吉時代に行われた地業の跡から何か予兆めいたものが感じられました。

 地業とは、かなり重い建物を支えるために行われる地盤改良工事のことで、寺院や宮殿などの基壇、あるいは礎石を伴う柱の跡でみられます。地下式礎石の建物跡から近い所でしたが、異なる建物だと思っています。

 直径2・7㍍、深さ0・5㍍の不整円形の穴の中で、小石混じりの土を厚さ10㌢程度入れては突き固める作業が繰り返されていました。

 丁寧に土が積み重ねられた跡は遺構を断ち割った断面に層として現れます。直線的な横縞模様は城の地業とは思えない繊細さで、「大切な人のために作業しているのだろうな」と感じさせる遺構でした。

 大切な人は秀吉のこと。まだ断定はされていませんが、指月城の中心区画だとする、ひとつの根拠にもなるでしょう。

■一流はどこまでも

西寺の五重塔跡=南区
 
塔の心礎周辺の地業跡。整然とした縞状の層が美しい
 

 指月城の遺構を見てふと思い出したのが、西寺・五重塔跡=南区=の地業のことでした。西寺は平安京の玄関口・羅城門の東に立つ東寺(教王護国寺)に対し、西に存在した国営寺院です。

 塔跡は令和元年の調査で見つかりました。ほぼ正方形の建物跡から見つかった柱は礎石を伴い、地盤改良の際は礎石の下を掘って土を入れ、突き固める壺地業と呼ばれる作業が行われていました。

 調査は翌年まで続いたのですが、その中で塔の中心の柱を支える心礎周辺だけが、釈迦の骨「仏舎利」を納める容器を安置するためか、周囲の柱で行われた地業よりも繊細、丁寧に整備されていました。

 それは宮殿跡などの重要建造物で行うレベルで、土や粘土などを交互に入れては突き固める「版築(はんちく)」と呼ばれる工法を採用し、横縞状に現れる土層の厚みが周囲の10~15㌢に対して心礎部分だけは5㌢前後と、より薄く積み重ねる仕事ぶりでした。

院政期の地業跡=左京区

 

 さらに、もうひとつ紹介すると、平安時代後期の院政期と呼ばれる時代、鴨川の東で天皇や上皇・皇族が寺院・御所を構えた白河街区の聖護院周辺=左京区=からも見事な地業跡が見つかっています。

 建物の正体は不明なのですが、拳大の石を全面に敷いた層と土の層がミルフィーユ状に何層も重ねられた作業ぶりには、当時の権力者の権勢と手掛けた人の思いがしのばれます。

 高層で、太い柱、大量の瓦を使った権力者の建造物は相当に重たかったことでしょう。そして、一流の建造物を支える地盤にも工人のブライドがかけられていたのです。

 

       現在の「新風館」近くで出土した室町時代の池の跡=京都市中京区

 

 千年の都、平安京とその周辺には数多くの庭園が生まれ、多くの庭園が消えていきました。そして近年の発掘調査では往時の姿をとどめた遺構も出土しています。現在、京都市考古資料館(上京区)で開催中の特別展「みやこの庭園~発掘と整備から知るすがた」は、調査して地中から現れた庭園遺構の写真とともに、一緒に出土した遺物の展示を通して往時の姿、庭にかけた当時の人たちの思いを蘇られてくれる企画になっています。

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 会場には平安京に遷都して以降に造られた庭園・庭園跡18カ所から出土した池の遺構などの写真、約255点の遺物を時代ごとに展示しています。特に平安時代後期の白河、鳥羽両天皇が譲位後の御所として鴨川と桂川の合流点周辺に造営した鳥羽離宮から出土した遺物は見ものです。

 

  

 

 

鳥羽離宮跡から出土した、きらびやかな遺物の数々

 

 鳥羽離宮は南北1㌔、東西1・5㌔とされる広大な敷地に御所にかかわる殿舎や寺院の堂塔が並び、それに付随する庭園が造営されます。その跡地から出土した鴛鴦(おしどり)文金具は鳥羽上皇が敷地内に建立した金剛心院の遺物で、木製の仏像光背・台座片とともに展示の白眉になっています。

 金剛心院には釈迦堂や九躰阿弥陀堂などの諸堂、滝を備えた広大な池を持つ庭園が配されていたことが記録や発掘調査などで確認されていますが、今も遺物の中に残る黄金の輝きや精緻な文様から、当時の荘厳な姿を垣間見ることができます。

 

    

  水際に州浜が敷かれた西三条第の池跡=中京区                    

 

西三条第から出土した土器

 

 平安時代初期、現在のJR二条駅周辺にあった右大臣、藤原良相(よしみ)の邸宅「西三条第」の池跡から出土した土器に書かれた墨書は、文字が漢字から日本独特のひらがなへ移行しようとしている時代の変遷がわかる記念碑的史料で、当時の上級貴族の知識の高さがうかがえます。

 

  

 滝石組が出土した時の現場

 

 また室町時代、浄土真宗の蓮如が造営した山科本願寺の庭跡で出土した色彩豊かな磁器片や玉類が展示されています。現在の「新風館」近くで出土した滝石組を持つ池跡から出土した青磁鉢は、底の中央部分に穴をあけて植木鉢として再利用したことがわかります。

 安土・桃山時代~江戸時代からは、西本願寺・飛雲閣前に現在も存在する庭「滴翠園(てきすいえん)」や〝ねねの寺〟高台寺や知恩院の庭園を調査して出土した、長い歴史の中で埋もれてきた景石などの写真とともに陶器や瓦などの遺物を展示しています。

 会期は6月21日まで、休館は原則月曜日。入場無料。会期中、講演や展示解説などのイベント(有料)も予定しています。詳しくは同館(075・432・3245)へ。

 

 昨年末に掲載した長岡京跡の続報です。

 前回は、平安京への遷都直前の長岡京の北一条大路の路上に、桓武天皇が2年間、仮住まいとした「東院」の周辺に集められた役所跡とみられる大型建物跡を紹介しましたが、今回は、その北隣で昨年9月から12月にかけて実施された発掘調査で都が営まれたわずか10年の間に、小さな建物を壊して大きな建物に建て替えたことを示す遺構が出土したことについてお話しします。

 そして調査結果が示す意義のこともこれまでの調査も踏まえながら紹介します。

 

 2棟の大小の建物のうち小規模の建物跡は南北の柱間が2間×東西が3間、柱穴の掘り方は0・6~0・7㍍四方でした。一方、大規模の建物跡は南北が2間で確定です。東西が現状では3間ですが、さらに延伸して5間か7間が見込まれています。柱穴の掘り方は1㍍弱。柱間の間隔は2棟とも2・5㍍前後でした。

 

 遺構の成立時期は、遺構と一緒に出た土器(時代ごとに流行の形があるものです)などの遺物をみて特定するのですが、長岡京期が10年とあまりにも短いため、2棟の建物が長岡京期のどの時期に建てられたのかという詳細な部分について土器で特定するのは不可能なのです。

 

 ところが今回は、2棟の建っていた位置がほぼ重なっていたことが幸いしました。2棟の柱跡が複数の個所で重なっていたことです。つまり小さい建物の柱穴が大きな建物の柱穴に切られていたことで、小規模建物が大規模建物の先に建てられたことは確認できました。

 

 この結果、小規模の建物は長岡京の造営期、大規模建物は前回紹介した東院の開設に伴い周辺に集められた役所のひとつではないかという、見方ができるようになりました。

 

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 さらに今回と前回の調査地が隣り合わせだったことから、前回の調査地が出土した遺構・遺物との関連性が推察できるようになりました。

 今回の調査地は長岡京にあてはめれば、左京北一条二坊五町にあたります。天皇・皇后の生活空間「内裏」や政治の中心施設「大極殿院」、官庁などが集まる「長岡宮」に近く、比較的身分の高い人物が住む一等地だったともいえます。

 

 1町の広さは一辺約120㍍四方です。そして今回の2棟の建物跡が出土した五町には南北の杭列で土地を東西半分に分けた跡があり、2棟の建物跡があった住人は東半分に住んでいたことがわかります。

 

 土地の広さから住人の身分もわかり、位階は三位以上の上級とまではいきませんが、それに続く位を持っていた人物ということになるでしょうか。

 ここで昨年末に紹介したある遺物との関連が頭に浮かんできたのです。

 

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 その遺物とは、前回も紹介した、底にぎっしり墨書された土師器皿(直径約16㌢)のことです。今回の調査地に隣接した自然流路から大量の木簡と一緒に出土し、ほぼ完全な形で残っていました。

 

 皿に書かれていた墨書のうち「右兵衛督宅牒」と書かれていた内容から、天皇や皇族の護衛目的で都の左右に置かれていた役所「右兵衛府(ひょうえふ)」のトップ(督)の宅地が皿の出土地の近くにあった可能性が高いことがうかがえます。

 

 このことから、今回の調査地がその宅地ではないかと推測したのです。当時の記録では、この時期に右兵衛府のトップの座に就いていたと思われるのが、五百枝王(いおえのおおきみ)です。

 五百枝王は平城京から長岡京へ遷都した翌年の延暦4(785)年に暗殺された同京造営の責任者、藤原種継が暗殺された事件で首謀者とされた早良(さわら)親王の甥で、事件に連座して伊予国(現在の愛媛県)への流罪に処されています。

 その五百枝王の当時の階級が従四位上。今回の調査でわかった、朝廷から班給された土地の広さと一致するのです。

 

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 さらに、今回の調査を実施したNPO法人「平安京調査会」(京都市)の担当者によると、小規模建物の柱の埋め方が大規模建物よりも丁寧だったという話も聞いています。徐々に土を入れて突き固めながら埋めていったということです。

 

 当然、大規模建物の場合は緊急性の高い東院に伴う建て替えだけに、やや粗くなったとしても仕方ないことです。一方、小規模建物での丁寧な仕事ぶりは皇族という身分が関わっているようにも思えるのです。

 住人の特定には、確かな記録か調査で名前の書いた土器、木簡の出土が必要です。そういう意味では、この推測は根拠の薄い話ですが、遺構が出た場所といい遺物といい、どこか惹かれる話だと思い、とり上げてみました。