大炊御門大路跡。中央の高まりが築地塀跡で、その右に犬行。側溝、路面の順で展開する=令和6年6月、京都市中京区

 

 京都を説明するときに度々登場するのが、「碁盤の目」という言葉です。中国の都城を参考に東西、南北に規則正しく交差する道路で区画された都市景観がそう言わせているのでしょうが、当初は法令通りにつくられた道路も、朝廷の権威が衰退するにつれて当初の決まり事もどこかに消え、いろんな変遷を繰り返しながら現在の姿になっているのです。その変遷を発掘調査の成果を踏まえながら紹介していきます。

■都の道路

 一昨年、京都市中京区、平安京でいえば左京二条二坊十町の一角を発掘調査したところ、遷都間もない9世紀前半につくられた東西道・大炊御門(おおいみかど)大路(現・竹屋町通り)跡が側溝や塀などとともに出土しました。当時の道路は、人や車が通る路面を中央に、路面の両端に沿った側溝、さらに側溝の外に置かれた空間地「犬行(いぬばしり)」を挟んで、宅地を囲う塀で構成されていました。遷都以来、開発が繰り返された平安京でもあり、遷都当初の京内の開発の様子が具体的にわかる遺構が出土するのは極めて珍しいケースだといえます。

 調査地は天皇の住まいや役所が集まる平安宮の東端に隣接し、昔の百科事典「拾芥抄(しゅうがいしょう)」によると、当初は桓武天皇の子、賀陽(かや)親王の邸宅(九町説も)にあたり、のちには平等院を建立した藤原頼通の宅地にもなっています。

 今回の調査では、路面はわずかに北端が顔をのぞかせた程度でしたが、道路の北側溝跡は幅0・9㍍、深さ0・15㍍、北築地塀跡は黄色い土を盛った土台部から幅1・9㍍と判明し、犬行の幅は1・0㍍と確認されました。

 当時の法典「延喜式」の中で大路・小路の規格を定めた「京程」には、大炊御門大路は全幅が30㍍と定められています。このうち路面の幅は22・8㍍、側溝1は・2㍍で、犬行1・5㍍、全幅の半分のスケールで定められている塀は0・9㍍(全幅1・8㍍)でした。

 この結果、犬行の誤差が最も大きく、側溝や築地塀でも多少の誤差が出ていたことがわかりましたが、そうならば造営当初から掟破りが行われていたようにもみえます。

■法律で定められた規模

 詳しくみると、塀の位置が規定より約60㌢南にずれていました。誤差の範囲なのでしょうが、邸内の敷地をやや広めにとり、その分、犬行と側溝の幅を狭めることで帳尻を合わせ、路面の北端の位置を10㌢ほどの誤差にとどめていたことがわかります。

こうしてみると、平安京を築くにあたり、路面とそれに付随する施設の規格は法律で定めながら、犬行の空間内だけは自由な使い方ができたとも考えるることができます。120㍍四方をひと区画とし、土地を正確に班給するのに最も重要なことは、正確な位置に路面を走らせることだということになります。

 このため当時、路面や道路側溝の設置・管理には国がかかわりますが、築地塀の設置・管理は朱雀大路など一部を除いて土地の所有者が行っていたといいます。この遺構では、都を造営する際に必要な条件・意図や正確性、さらに、その目的をきっちりと果たそうとした関係者の熱意を垣間見る思いがします。

 

都城の範囲を飛び出した一条大路の跡。粒石などを入れて路面を固めている=平成29年1月、上京区

 

■侵食の跡

 ところが、遷都から数十年経た頃から規程外の開発が始まります。京内で最北端の東西道・一条大路が東京極(現・寺町通り)を越えて鴨川の方向に向かった跡が出土しています。周辺には藤原良房(804❘72年)や藤原道長(966❘1028年)という藤原氏の全盛時代を築いた権力者の邸宅・寺院が造営されて、その周辺が開発されたのに伴い延長された可能性があります。

 さらに院政期の11世紀後半以降、鴨(賀茂)川東岸に天皇・中宮発願の寺院が続々建立され、二条大路は鴨川を越えます。五条大路(現・松原通り)も平家や鎌倉幕府の拠点となった「六波羅」とつなぐ幹線道として鴨川を渡り、大路の規格も保ちますが、幕府の滅亡後すぐに道幅は狭まります。

 

七条大路跡。調査地の壁面に補修の歴史が刻まれている=平成30年8月、下京区

 

七条大路跡。右端の路面上に杭が侵食する様子がうかがえる 

 

 道を侵食し、宅地・農地化することを「巷所(こうしょ)」と呼びます。巷所は12世紀ごろから、大して人通りもないのに不必要に幅の広い道路で始まります。

 七条大路跡では面白い跡が見つかっています。七条大路は京の生活を支えた市場や山陰道につながる重要な物流ルートで、現在まで規模がほぼ維持されてきた道路の一つです。

 このため、調査では平安後期の11世紀末から鎌倉末期の14世紀初めまでの間に約20回にわたり路面の補修を繰り返してきた跡が出ています。一方、鎌倉時代後半の13世紀末から14世紀初めにかけて、数十㌢ながら道路を侵食して宅地を広げた跡も出ています。重要道路で役人の目が厳しい中、周辺の住民は監視をかいくぐり、わずかな土地を巡って涙ぐましい攻防を展開していたのです。

 

西堀川小路跡。川の両側に路面が走る=令和6年6月、中京区

 

■隔世の感

 そんな中で最近、一番印象に残った成果といえば、西堀川小路跡が川とともに側溝、築地塀、犬行の跡がそのままの形で出たことでしょうか。堀川小路は京の東西にそれぞれ置かれた運河を持つ道路で、現在の二条城前を通る堀川通りは東堀川小路にあたります。今回出土した西堀川小路は現在の西大路通りの東側に通っていた南北道路でしたが、今は面影すら見ることはできません。

 全幅は24㍍と大路と同じ規模です。真ん中に流れる幅8㍍の川の両側に幅8㍍の道路が通っていましたが、10世紀に発生した洪水で埋まったあとは再生することなく、そのままパックされて残っていました。川沿いには護岸のための杭列がずらりと並んでいました。東西道路の川から遠い道端から荷車の通ったことを示す轍(わだち)の跡が生々しく当時の往来の様子を伝えています。

 それにしても川の深さが60㌢程度と意外に浅いことに驚きました。当時の舟は底が平たいため、通行は可能でしょうが、台風クラスの大雨が起きれば、もたないでしょう。現在の堀川通りも当初は西堀川小路と同じ規格だったわけですから、よくここまで残ったということになるのでしょうが、周辺を含め現在の姿をみると、やはり隔世の感を覚えます、

 

平安京跡から出土した将棋の駒。「王将」は最古の例。上の写真が表、下の写真が裏(京都市埋蔵文化財研究所提供)

 

 

 平安時代の将棋で使われた「王将」駒が、京都市中京区の平安京跡から見つかりました。調査を担当した京都市埋蔵文化財研究所は一緒に出土した土器などから、遅くても12世紀中ごろには使われていたとみています。「王将」は将棋の中で最も重要な駒ですが、伝来当初は「王将」の駒はなく、「玉将(ぎょくしょう)」しかなかったようです。「王将」が登場するのは12世紀末とみられていますが、新たに見つかった駒は、それより数十年早く使われていたことがわかる史料になりました。

 現場は、平安京・坊城小路(現在の坊城通り、南北道)沿いの左京四条一坊五町にあたり、現在の阪急電鉄・大宮駅の西にあたります。古い記録では宇多天皇の同母兄、是忠親王の「南院」など平安時代の前期から後期にかけて皇族、貴族の邸宅があった場所とされています。

 今回の調査は令和6年8月から11月にかけて行われました。調査面積は約245平方㍍。このうち将棋の駒は、多くの木片やマダイの骨などを含んだ楕円形の穴(長径0・9㍍、深さ0・3㍍)から出土しました。

 見つかった駒は「王将」と「金将」「歩」の3点。「王将」「金将」の裏は無地、「歩」の裏には「と」と書かれていました。大きさはいずれも最大幅2・2㌢。上に行くほど幅が狭くなる五角形で、長さは2・8❘2・9㌢と誤差はなく、セットだったとみられます。

 一緒に出できた土器皿の形式や、皿が生産してすぐに消費・廃棄されやすい種類だったことから、1140~70年には使われていたとみられています。

 将棋が国内に伝来してきた時期については、古墳時代から平安時代まで諸説あります。最古の例は興福寺旧境内=奈良市=から出土した駒で、「天喜六(1058)年」と書かれた巻物の軸と一緒に見つかっています。ところが「王将」の駒は伝来当初は存在せず、「玉将」が使われていました。興福寺旧境内から出た駒にも「玉将」しか見られません。

 「王将」が出てくるのはそれから約130年後のことで、上清滝遺跡=大阪府四条畷市=で、「寿永二(1184)年」と墨書された木簡と一緒に出土したケースでした。

 今回は一緒に出土した皿の形式から駒の使用時期を割り出していますが、上清滝遺跡出土の駒より数十年早く使われていたということになるでしょう。

 

礎板が出土した柱穴(手前)。底には置かれた礎板が見える

 

坊城小路跡

 

 このほか、今回の調査では坊城小路跡とともに道路沿いに設けられた南北2カ所の柱穴跡(柱間4・1㍍)の底から、比較的重たい建造物を支えた礎板が出土しています。礎板は軟弱で不安定な地盤の中、柱を安定させるために柱穴の底に敷いた板のこと。今回の出土場所が小路沿だったことから、礎板が支えたのは門(通用門ぐらいか?)の柱だった可能性があります。

指月城跡で出土した高層建造物のものとみられる地下式礎石=京都市伏見区

 

 

 豊臣秀吉が京都・伏見に最初に築いた指月(しげつ)城=京都市伏見区=の天守台想定地近くで、令和6年末から7年始めにかけて発掘調査を行ったところ、指月城跡として初の本格的な建物遺構が出土しました。高層建築とみられ、筆者が現役記者だった昨年6月に紙面で報じたところですが、今回はその番外編ともいえるエピソードを紹介します。

■秀吉の指月城跡から

  

  出たてホヤホヤの金箔瓦

 

 伏見城は、秀吉が甥の秀次に関白職を譲った後の文禄2(1593)年に築いた屋敷が始まりとされています。ところが、地震で倒壊後に近くの木幡(こはた)山に城を移す(木幡山伏見城)と、今度は関ケ原の戦いの前哨戦で焼失。その後、徳川家康が再建しています。

 今回の調査地は秀吉期の最初の伏見城「指月城」の南東隅にあたり、天守台の存在が想定されている重要地点でした。住宅の新築に伴い、市文化財保護課が6年12月から1カ月余りかけ約90平方㍍を調査しました。

 この調査での最大の成果は、何といっても、天守ではないものの、それに付随するような指月城期の本格的な建造物が初めて見つかったことです。

 高層の建築跡でみられる地下式礎石と呼ばれる遺構で、建物の柱を支える礎石が地上から1㍍以上深い地中で見つかりました。地下式礎石は地震などに強く、ここでは矢倉や3層程度の住宅などが予想されています。

■大切な人のために

 

  地下式礎石の近くから出土した地業跡。丁寧に積み重ねていました

 

 調査期間はわずか1カ月余りでしたが、週一回以上のペースで現場に通いました。天守の想定地に近いということもありますが、遺構の解釈が翌日には変わることを何度も体験したこともあるからでしょう。

 今回は2、3度ほど訪ねた時の話ですが、わずか1カ所でしたが、秀吉時代に行われた地業の跡から何か予兆めいたものが感じられました。

 地業とは、かなり重い建物を支えるために行われる地盤改良工事のことで、寺院や宮殿などの基壇、あるいは礎石を伴う柱の跡でみられます。地下式礎石の建物跡から近い所でしたが、異なる建物だと思っています。

 直径2・7㍍、深さ0・5㍍の不整円形の穴の中で、小石混じりの土を厚さ10㌢程度入れては突き固める作業が繰り返されていました。

 丁寧に土が積み重ねられた跡は遺構を断ち割った断面に層として現れます。直線的な横縞模様は城の地業とは思えない繊細さで、「大切な人のために作業しているのだろうな」と感じさせる遺構でした。

 大切な人は秀吉のこと。まだ断定はされていませんが、指月城の中心区画だとする、ひとつの根拠にもなるでしょう。

■一流はどこまでも

西寺の五重塔跡=南区
 
塔の心礎周辺の地業跡。整然とした縞状の層が美しい
 

 指月城の遺構を見てふと思い出したのが、西寺・五重塔跡=南区=の地業のことでした。西寺は平安京の玄関口・羅城門の東に立つ東寺(教王護国寺)に対し、西に存在した国営寺院です。

 塔跡は令和元年の調査で見つかりました。ほぼ正方形の建物跡から見つかった柱は礎石を伴い、地盤改良の際は礎石の下を掘って土を入れ、突き固める壺地業と呼ばれる作業が行われていました。

 調査は翌年まで続いたのですが、その中で塔の中心の柱を支える心礎周辺だけが、釈迦の骨「仏舎利」を納める容器を安置するためか、周囲の柱で行われた地業よりも繊細、丁寧に整備されていました。

 それは宮殿跡などの重要建造物で行うレベルで、土や粘土などを交互に入れては突き固める「版築(はんちく)」と呼ばれる工法を採用し、横縞状に現れる土層の厚みが周囲の10~15㌢に対して心礎部分だけは5㌢前後と、より薄く積み重ねる仕事ぶりでした。

院政期の地業跡=左京区

 

 さらに、もうひとつ紹介すると、平安時代後期の院政期と呼ばれる時代、鴨川の東で天皇や上皇・皇族が寺院・御所を構えた白河街区の聖護院周辺=左京区=からも見事な地業跡が見つかっています。

 建物の正体は不明なのですが、拳大の石を全面に敷いた層と土の層がミルフィーユ状に何層も重ねられた作業ぶりには、当時の権力者の権勢と手掛けた人の思いがしのばれます。

 高層で、太い柱、大量の瓦を使った権力者の建造物は相当に重たかったことでしょう。そして、一流の建造物を支える地盤にも工人のブライドがかけられていたのです。

 

       現在の「新風館」近くで出土した室町時代の池の跡=京都市中京区

 

 千年の都、平安京とその周辺には数多くの庭園が生まれ、多くの庭園が消えていきました。そして近年の発掘調査では往時の姿をとどめた遺構も出土しています。現在、京都市考古資料館(上京区)で開催中の特別展「みやこの庭園~発掘と整備から知るすがた」は、調査して地中から現れた庭園遺構の写真とともに、一緒に出土した遺物の展示を通して往時の姿、庭にかけた当時の人たちの思いを蘇られてくれる企画になっています。

                       ◇

 会場には平安京に遷都して以降に造られた庭園・庭園跡18カ所から出土した池の遺構などの写真、約255点の遺物を時代ごとに展示しています。特に平安時代後期の白河、鳥羽両天皇が譲位後の御所として鴨川と桂川の合流点周辺に造営した鳥羽離宮から出土した遺物は見ものです。

 

  

 

 

鳥羽離宮跡から出土した、きらびやかな遺物の数々

 

 鳥羽離宮は南北1㌔、東西1・5㌔とされる広大な敷地に御所にかかわる殿舎や寺院の堂塔が並び、それに付随する庭園が造営されます。その跡地から出土した鴛鴦(おしどり)文金具は鳥羽上皇が敷地内に建立した金剛心院の遺物で、木製の仏像光背・台座片とともに展示の白眉になっています。

 金剛心院には釈迦堂や九躰阿弥陀堂などの諸堂、滝を備えた広大な池を持つ庭園が配されていたことが記録や発掘調査などで確認されていますが、今も遺物の中に残る黄金の輝きや精緻な文様から、当時の荘厳な姿を垣間見ることができます。

 

    

  水際に州浜が敷かれた西三条第の池跡=中京区                    

 

西三条第から出土した土器

 

 平安時代初期、現在のJR二条駅周辺にあった右大臣、藤原良相(よしみ)の邸宅「西三条第」の池跡から出土した土器に書かれた墨書は、文字が漢字から日本独特のひらがなへ移行しようとしている時代の変遷がわかる記念碑的史料で、当時の上級貴族の知識の高さがうかがえます。

 

  

 滝石組が出土した時の現場

 

 また室町時代、浄土真宗の蓮如が造営した山科本願寺の庭跡で出土した色彩豊かな磁器片や玉類が展示されています。現在の「新風館」近くで出土した滝石組を持つ池跡から出土した青磁鉢は、底の中央部分に穴をあけて植木鉢として再利用したことがわかります。

 安土・桃山時代~江戸時代からは、西本願寺・飛雲閣前に現在も存在する庭「滴翠園(てきすいえん)」や〝ねねの寺〟高台寺や知恩院の庭園を調査して出土した、長い歴史の中で埋もれてきた景石などの写真とともに陶器や瓦などの遺物を展示しています。

 会期は6月21日まで、休館は原則月曜日。入場無料。会期中、講演や展示解説などのイベント(有料)も予定しています。詳しくは同館(075・432・3245)へ。

 

 昨年末に掲載した長岡京跡の続報です。

 前回は、平安京への遷都直前の長岡京の北一条大路の路上に、桓武天皇が2年間、仮住まいとした「東院」の周辺に集められた役所跡とみられる大型建物跡を紹介しましたが、今回は、その北隣で昨年9月から12月にかけて実施された発掘調査で都が営まれたわずか10年の間に、小さな建物を壊して大きな建物に建て替えたことを示す遺構が出土したことについてお話しします。

 そして調査結果が示す意義のこともこれまでの調査も踏まえながら紹介します。

 

 2棟の大小の建物のうち小規模の建物跡は南北の柱間が2間×東西が3間、柱穴の掘り方は0・6~0・7㍍四方でした。一方、大規模の建物跡は南北が2間で確定です。東西が現状では3間ですが、さらに延伸して5間か7間が見込まれています。柱穴の掘り方は1㍍弱。柱間の間隔は2棟とも2・5㍍前後でした。

 

 遺構の成立時期は、遺構と一緒に出た土器(時代ごとに流行の形があるものです)などの遺物をみて特定するのですが、長岡京期が10年とあまりにも短いため、2棟の建物が長岡京期のどの時期に建てられたのかという詳細な部分について土器で特定するのは不可能なのです。

 

 ところが今回は、2棟の建っていた位置がほぼ重なっていたことが幸いしました。2棟の柱跡が複数の個所で重なっていたことです。つまり小さい建物の柱穴が大きな建物の柱穴に切られていたことで、小規模建物が大規模建物の先に建てられたことは確認できました

 

 この結果、小規模の建物は長岡京の造営期、大規模建物は前回紹介した東院の開設に伴い周辺に集められた役所のひとつではないかという、見方ができるようになりました。

 

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 さらに今回と前回の調査地が隣り合わせだったことから、前回の調査地が出土した遺構・遺物との関連性が推察できるようになりました。

 今回の調査地は長岡京にあてはめれば、左京北一条二坊五町にあたります。天皇・皇后の生活空間「内裏」や政治の中心施設「大極殿院」、官庁などが集まる「長岡宮」に近く、比較的身分の高い人物が住む一等地だったともいえます。

 

 1町の広さは一辺約120㍍四方です。そして今回の2棟の建物跡が出土した五町には南北の杭列で土地を東西半分に分けた跡があり、2棟の建物跡があった住人は東半分に住んでいたことがわかります。

 

 土地の広さから住人の身分もわかり、位階は三位以上の上級とまではいきませんが、それに続く位を持っていた人物ということになるでしょうか。

 ここで昨年末に紹介したある遺物との関連が頭に浮かんできたのです。

 

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 その遺物とは、前回も紹介した、底にぎっしり墨書された土師器皿(直径約16㌢)のことです。今回の調査地に隣接した自然流路から大量の木簡と一緒に出土し、ほぼ完全な形で残っていました。

 

 皿に書かれていた墨書のうち「右兵衛督宅牒」と書かれていた内容から、天皇や皇族の護衛目的で都の左右に置かれていた役所「右兵衛府(ひょうえふ)」のトップ(督)の宅地が皿の出土地の近くにあった可能性が高いことがうかがえます。

 

 このことから、今回の調査地がその宅地ではないかと推測したのです。当時の記録では、この時期に右兵衛府のトップの座に就いていたと思われるのが、五百枝王(いおえのおおきみ)です。

 五百枝王は平城京から長岡京へ遷都した翌年の延暦4(785)年に暗殺された同京造営の責任者、藤原種継が暗殺された事件で首謀者とされた早良(さわら)親王の甥で、事件に連座して伊予国(現在の愛媛県)への流罪に処されています。

 その五百枝王の当時の階級が従四位上。今回の調査でわかった、朝廷から班給された土地の広さと一致するのです。

 

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 さらに、今回の調査を実施したNPO法人「平安京調査会」(京都市)の担当者によると、小規模建物の柱の埋め方が大規模建物よりも丁寧だったという話も聞いています。徐々に土を入れて突き固めながら埋めていったということです。

 

 当然、大規模建物の場合は緊急性の高い東院に伴う建て替えだけに、やや粗くなったとしても仕方ないことです。一方、小規模建物での丁寧な仕事ぶりは皇族という身分が関わっているようにも思えるのです。

 住人の特定には、確かな記録か調査で名前の書いた土器、木簡の出土が必要です。そういう意味では、この推測は根拠の薄い話ですが、遺構が出た場所といい遺物といい、どこか惹かれる話だと思い、とり上げてみました。

 

 

 

 桓武天皇が平城京から都を移しながら、すぐに平安京に遷都したため、わずか10年の短命で終わった長岡京で、平安京への遷都直前の2年間、天皇の仮住まいとなった「東院(とういん)」の跡の東隣(京都府向日市)を発掘調査したところ、近くを通る大路上から大型の建物跡が出土しました。

 周辺では役所を置いたことを予想させるような木簡も出土しました。役所は本来、都の中心施設の長岡宮内に置かれますが、宮内を解体するため、臨時で路上に建てたものとみられます。遷都前夜の慌ただしさが具体的にわかる史料といえそうです。

 

  大路上から建物跡

 長岡京は延暦3(784)年に桓武天皇が平城京から移した都です。短命の理由として遷都翌年、長岡宮造営の中心人物、藤原種継の暗殺後の飢饉や疫病、天皇の近親者の相次ぐ死などあげられていますが、依然謎に包まれています。

 

 調査地は平安京に遷都する直前の延暦12(793)年、長岡宮の解体に伴い臨時で置かれた仮の内裏(だいり)「東院」の西隣にあたります。東院跡からは今から約25年前、整然と並ぶ大型建物跡群が出土しています。

 

 今回は市の道路整備や土地区画整理事業などに伴い民間の調査会社・団体が令和2年3月から3年5月にかけて約1万3千平方㍍を調査したところ、北一条大路の跡が出土しました。長岡京の道路のうち現状では一番北に敷設された東西大路で、道幅は24㍍。

 

 さらに東院の南西約150㍍の北一条大路上の南端から、南北約5㍍、東西約21㍍の掘っ立て柱の建物跡が出土しました。役所跡とみられます。一緒に出た土器などから長岡京期に建てられたことがわかりました

 

 このほか、北一条大路の南沿いからも複数の中規模クラスの建物跡が出土しています。これも長岡京期の役所跡とみられますが、短期間に2度建て直されていた例もみられました。

 

 

  木簡から役所名も?

 

 今回の調査では、大型建物跡の北方を北西から南東にかけて流れる流路の中から、長岡京時代の木簡が387点出土しました。

 

 この中で「郡安良郷戸主道守朝臣」と書かれた木簡のうち「安良」は、国内最古の百科事典「和名類聚抄」によると、摂津国西成郡(現在の大阪市の一部)内の地名で、「道守」という個人名も見えることから、戸籍に関する木簡とみられています。

 

 別の断片からは、「酒」や「魚」などの文字も見られ、全国からいろんな産物が運びこまれていたことをうかがわせています。

 

 木簡以外では、底の表面いっぱいに墨書された土師器の皿(直径約16㌢)が注目されます。この皿は大型建物跡の北約150㍍の自然流路内から見つかり、ほぼ完全な形で残っていました

 

 書かれていた「右兵衛督宅牒」から、天皇や皇族の護衛目的で2つに分かれて置かれた「兵衛府(うひょうえふ)」のうち、一方のトップの屋敷から発する文書の草案が皿に書かれているとみられています。

 

 当時の記録では、右兵衛督には種継暗殺の首謀者とされた早良(さわら)親王の甥で、暗殺事件に連座した五百枝王(いおえのおおきみ)も任命されていますが、墨書との関連は不明です。

 

 長岡京研究の第一人者の山中章・三重大名誉教授は「木簡の中に含まれた戸籍関係は民部省や京職などの行政機関が近くにあった可能性を示したもの。さらに詳細に見ていけば、東院の周囲にどんな役所が集まっていたのかなど、平安京遷都前夜の様子がもっと詳しくわかるのでは」と話しています。

左京域の発掘現場。一面に違う時代の遺構が絡み合っている=京都市中京区

 

 平安京遷都から江戸幕府終焉までの1100年間、日本の首都の地位を保った京都。その間に開発と創造が繰り返された地中は時代の痕跡が複雑に絡まり、京都市内の発掘調査は全国屈指の難しさといわれています。

 

 ところが京都市内ではここ数年間、マンションを中心にした大型建物の建設がハイペースで進む半面、専門調査員の数が足りず、調査の可否をみる試掘調査も半年待ち待ちの状態といいます。そんな中で京都市が打った手とは。京都市内の発掘調査に潜む課題に迫ってみました。

 

 

 

  絡み合う遺構

 平安京は延暦13(794)年に遷都された、かつての日本の首都。京内の中心を通る南北道・朱雀大路(現在の千本通)を境に東側は左京、西側は右京に分かれていました。

 

 しかし以後も発展を続けたのは左京域のみで、この結果、左京域の地中は各時代の層が積み重なり、現在の地面から遷都当初の地層にたどりつくのに3メートル前後も掘り下げることもあります。

 

 しかし、ひとつの層にそれぞれの時代の痕跡のみが刻まれているかといえばそうではなく、別の時代の遺構が複雑に絡み合っているのです。

 

 検出した遺構も建物の柱穴とは限りません。井戸やゴミ穴、さらには壁に使う土の採取に伴う大きな穴も出てくる。わずか数百平方メートルの調査範囲で数百、数千の穴が現れることも。

 

 長く平安京の調査を務める京都市埋蔵文化財研究所の南孝雄調査課長は「建物が古くなり柱を抜くと別の土で埋めて整地し、再び建物を建てる、その繰り返しですが、その後に火災の廃材廃棄や土取り目的で大穴をあけると、そこで各時代の遺構も削られます」と説明する。

 

 つまり調査員は、そんな遺構の性格をひとつひとつ見極めながら手際よく正確に調査し、時代ごとに遺構をまとめ、図面化することが求められているといいます。

 

 

  熟練度でランク付け

 ここ数年、年間40件以上の調査が行われている京都市では独自の調査員だけでは数が足りず、平安京の調査経験を持つ調査員が所属する民間の団体・会社の手を借りています。市埋文研など11団体・会社が登録されています。とはいえ団体・会社にも熟練度の差があります。

 

 京都市文化財保護課の馬瀬智光係長は「他府県で発掘経験が豊富な人でも平安京の左京域をいきなり調査するのは難しい」と話します。このため、それぞれにランクをつけ、試掘調査の結果や過去の周辺調査の記録や古文書などで遺構の重要度を見定め、調査をふり分けています。

 

 例えば、天皇や皇族が執務・居住する空間、官庁が集まる京の中心施設「平安宮」を調査できるのは同課と市埋文研のみ。天皇が退位後に住んだ離宮や主要寺院、城郭など主要遺構を調査できるのは前記の2者を加えた計4者で、高度な技術が必要な左京域を調査できる団体・会社も限られています。

 

 とはいえ、市内で調査可能な団体・会社の調査員数は合わせても約40人。調査範囲が他府県をまたぐ団体・会社もあるので、決して満足できる数字ではありません。

 

 

  忍び寄る少子高齢化

 さらに少子高齢化の波が追い打ちをかけます。都市開発が加速度的に行われた昭和期に積極採用してきた調査員が定年を迎えたのに加え、大学でも後進育成が進んでいないことが原因にあげられるといいます。

 

 またベテランは仕事が正確で早く、解釈も間違いありませんが、体力面での心配もあり、京都市では70歳定年を呼びかけている一方、アドバイザーとしての役割にも期待をかけているため、ベテランの在籍が評価の重要なポイントになっています。

 

 そんな中、現場ではベテランと若手を組ませて技術の継承に努める工夫がみられます。大学でも熟練技術を持つ教員がキャンパス内などでの発掘調査で学生を直接指導するほか、長期休み中の調査体験を呼びかけるなどして、学生に興味を持ってもらうような工夫を凝らしています。

 

 現場を熟知する龍谷大学の國下多美樹教授は「考古学界は人手不足で今、危機的な状況にあります。体験を通じて学生が現場に面白味を感じて、一人でも多くの担い手が出てきてくれれば」と話しています。

①	西陣の源流の地にあたる平安宮の大宿直跡で出土した室町時代の建物跡=京都市上京区 

 

 平安京の中心施設、平安宮の北東隅に置かれていた宮中を警備する役人の詰め所「大宿直(おおとのい)」の想定地=京都市上京区=から、宮内が衰退後の室町時代に営まれたとみられる人家跡などが出土しました。

 

 貴族の日記などから、大宿直跡が衰退後、織物の一大生産地として知られるようになる「西陣」を形成する職人が住んでいたことが知られており、調査を担当した京都市埋蔵文化財研究所(市埋文研)は、これを裏付ける初めての史料とみています。

 

 土地開発に伴い令和6年7月から9月にかけて約280平方メートルを調査したところ、建物跡や柵列跡、塀跡が断片的に出土しました。遺構と一緒に出てきた土器などから、室町時代の応仁の乱前の15世紀中ごろに設けられたとみられています。

 

 建物跡は東西5・7メートル以上、南北4・7メートル。柱穴の掘り形は直径0・3~0・5メートル、深さは0・1~0・3メートルで、穴底に平らな石を置く地下式礎石の形式になっていました。また出土した土器の中には古瀬戸の水滴や輸入陶磁器などの高級品も混じっていたといいます。

 

 西陣は織物の一大生産地として全国でも知られていますが、平安宮が衰退し始めた鎌倉時代の13世紀前半ごろから大宿直跡に織物の職人集団が住みついたことが起源とされ、歌人・藤原定家の日記「明月記」などには町の栄ぶりが紹介されています。

 

 その後、応仁の乱が勃発すると職人はいったん京都を離れ、乱の終息後は再び京都に帰りますが、もとの大宿直跡には戻らず、その北に住みつき、今の西陣を形成しています。

 

 今回の調査結果について市埋文研の三好孝一調査研究技師は「西陣の始まりとされる鎌倉時代の遺構は確認できませんでしたが、出土遺物から居住者の財力がわかるなど、繁栄の一端をうかがい知れたのは大きな成果」と評価しています。

 

 

 役所の地鎮跡も

 

 また今回の調査では、平安京造営当初に大宿直の関連建物の建設に伴う地鎮とみられる遺構も出土しました。

 区画目的の「T」字形をした柵列の東西の列と南北の列が交わった部分の近くに埋められていました。

 

②	平安京造営当初に設けられた大宿直関係の地鎮跡

 

 長径0・35メートル、深さ0・40メートルの楕円形の穴の中に6枚の土師器の椀や蓋(直径0・12~0・18メートル)が重ねなれた状態で見つかり、埋土には少量の木炭片が混じっていました。土器内にたまっていた土を洗い。内容物を確認しましたが、見つかりませんでした。

 

 宮内での地鎮跡は、朝廷の饗宴に使われた豊楽殿や内裏の承明門の付近などから見つかっていますが、市埋文研は「平安京造営当初の遺構として興味深い」としています。