昨年末に掲載した長岡京跡の続報です。

 前回は、平安京への遷都直前の長岡京の北一条大路の路上に、桓武天皇が2年間、仮住まいとした「東院」の周辺に集められた役所跡とみられる大型建物跡を紹介しましたが、今回は、その北隣で昨年9月から12月にかけて実施された発掘調査で都が営まれたわずか10年の間に、小さな建物を壊して大きな建物に建て替えたことを示す遺構が出土したことについてお話しします。

 そして調査結果が示す意義のこともこれまでの調査も踏まえながら紹介します。

 

 2棟の大小の建物のうち小規模の建物跡は南北の柱間が2間×東西が3間、柱穴の掘り方は0・6~0・7㍍四方でした。一方、大規模の建物跡は南北が2間で確定です。東西が現状では3間ですが、さらに延伸して5間か7間が見込まれています。柱穴の掘り方は1㍍弱。柱間の間隔は2棟とも2・5㍍前後でした。

 

 遺構の成立時期は、遺構と一緒に出た土器(時代ごとに流行の形があるものです)などの遺物をみて特定するのですが、長岡京期が10年とあまりにも短いため、2棟の建物が長岡京期のどの時期に建てられたのかという詳細な部分について土器で特定するのは不可能なのです。

 

 ところが今回は、2棟の建っていた位置がほぼ重なっていたことが幸いしました。2棟の柱跡が複数の個所で重なっていたことです。つまり小さい建物の柱穴が大きな建物の柱穴に切られていたことで、小規模建物が大規模建物の先に建てられたことは確認できました

 

 この結果、小規模の建物は長岡京の造営期、大規模建物は前回紹介した東院の開設に伴い周辺に集められた役所のひとつではないかという、見方ができるようになりました。

 

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 さらに今回と前回の調査地が隣り合わせだったことから、前回の調査地が出土した遺構・遺物との関連性が推察できるようになりました。

 今回の調査地は長岡京にあてはめれば、左京北一条二坊五町にあたります。天皇・皇后の生活空間「内裏」や政治の中心施設「大極殿院」、官庁などが集まる「長岡宮」に近く、比較的身分の高い人物が住む一等地だったともいえます。

 

 1町の広さは一辺約120㍍四方です。そして今回の2棟の建物跡が出土した五町には南北の杭列で土地を東西半分に分けた跡があり、2棟の建物跡があった住人は東半分に住んでいたことがわかります。

 

 土地の広さから住人の身分もわかり、位階は三位以上の上級とまではいきませんが、それに続く位を持っていた人物ということになるでしょうか。

 ここで昨年末に紹介したある遺物との関連が頭に浮かんできたのです。

 

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 その遺物とは、前回も紹介した、底にぎっしり墨書された土師器皿(直径約16㌢)のことです。今回の調査地に隣接した自然流路から大量の木簡と一緒に出土し、ほぼ完全な形で残っていました。

 

 皿に書かれていた墨書のうち「右兵衛督宅牒」と書かれていた内容から、天皇や皇族の護衛目的で都の左右に置かれていた役所「右兵衛府(ひょうえふ)」のトップ(督)の宅地が皿の出土地の近くにあった可能性が高いことがうかがえます。

 

 このことから、今回の調査地がその宅地ではないかと推測したのです。当時の記録では、この時期に右兵衛府のトップの座に就いていたと思われるのが、五百枝王(いおえのおおきみ)です。

 五百枝王は平城京から長岡京へ遷都した翌年の延暦4(785)年に暗殺された同京造営の責任者、藤原種継が暗殺された事件で首謀者とされた早良(さわら)親王の甥で、事件に連座して伊予国(現在の愛媛県)への流罪に処されています。

 その五百枝王の当時の階級が従四位上。今回の調査でわかった、朝廷から班給された土地の広さと一致するのです。

 

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 さらに、今回の調査を実施したNPO法人「平安京調査会」(京都市)の担当者によると、小規模建物の柱の埋め方が大規模建物よりも丁寧だったという話も聞いています。徐々に土を入れて突き固めながら埋めていったということです。

 

 当然、大規模建物の場合は緊急性の高い東院に伴う建て替えだけに、やや粗くなったとしても仕方ないことです。一方、小規模建物での丁寧な仕事ぶりは皇族という身分が関わっているようにも思えるのです。

 住人の特定には、確かな記録か調査で名前の書いた土器、木簡の出土が必要です。そういう意味では、この推測は根拠の薄い話ですが、遺構が出た場所といい遺物といい、どこか惹かれる話だと思い、とり上げてみました。

 

 

 

 桓武天皇が平城京から都を移しながら、すぐに平安京に遷都したため、わずか10年の短命で終わった長岡京で、平安京への遷都直前の2年間、天皇の仮住まいとなった「東院(とういん)」の跡の東隣(京都府向日市)を発掘調査したところ、近くを通る大路上から大型の建物跡が出土しました。

 周辺では役所を置いたことを予想させるような木簡も出土しました。役所は本来、都の中心施設の長岡宮内に置かれますが、宮内を解体するため、臨時で路上に建てたものとみられます。遷都前夜の慌ただしさが具体的にわかる史料といえそうです。

 

  大路上から建物跡

 長岡京は延暦3(784)年に桓武天皇が平城京から移した都です。短命の理由として遷都翌年、長岡宮造営の中心人物、藤原種継の暗殺後の飢饉や疫病、天皇の近親者の相次ぐ死などあげられていますが、依然謎に包まれています。

 

 調査地は平安京に遷都する直前の延暦12(793)年、長岡宮の解体に伴い臨時で置かれた仮の内裏(だいり)「東院」の西隣にあたります。東院跡からは今から約25年前、整然と並ぶ大型建物跡群が出土しています。

 

 今回は市の道路整備や土地区画整理事業などに伴い民間の調査会社・団体が令和2年3月から3年5月にかけて約1万3千平方㍍を調査したところ、北一条大路の跡が出土しました。長岡京の道路のうち現状では一番北に敷設された東西大路で、道幅は24㍍。

 

 さらに東院の南西約150㍍の北一条大路上の南端から、南北約5㍍、東西約21㍍の掘っ立て柱の建物跡が出土しました。役所跡とみられます。一緒に出た土器などから長岡京期に建てられたことがわかりました

 

 このほか、北一条大路の南沿いからも複数の中規模クラスの建物跡が出土しています。これも長岡京期の役所跡とみられますが、短期間に2度建て直されていた例もみられました。

 

 

  木簡から役所名も?

 

 今回の調査では、大型建物跡の北方を北西から南東にかけて流れる流路の中から、長岡京時代の木簡が387点出土しました。

 

 この中で「郡安良郷戸主道守朝臣」と書かれた木簡のうち「安良」は、国内最古の百科事典「和名類聚抄」によると、摂津国西成郡(現在の大阪市の一部)内の地名で、「道守」という個人名も見えることから、戸籍に関する木簡とみられています。

 

 別の断片からは、「酒」や「魚」などの文字も見られ、全国からいろんな産物が運びこまれていたことをうかがわせています。

 

 木簡以外では、底の表面いっぱいに墨書された土師器の皿(直径約16㌢)が注目されます。この皿は大型建物跡の北約150㍍の自然流路内から見つかり、ほぼ完全な形で残っていました

 

 書かれていた「右兵衛督宅牒」から、天皇や皇族の護衛目的で2つに分かれて置かれた「兵衛府(うひょうえふ)」のうち、一方のトップの屋敷から発する文書の草案が皿に書かれているとみられています。

 

 当時の記録では、右兵衛督には種継暗殺の首謀者とされた早良(さわら)親王の甥で、暗殺事件に連座した五百枝王(いおえのおおきみ)も任命されていますが、墨書との関連は不明です。

 

 長岡京研究の第一人者の山中章・三重大名誉教授は「木簡の中に含まれた戸籍関係は民部省や京職などの行政機関が近くにあった可能性を示したもの。さらに詳細に見ていけば、東院の周囲にどんな役所が集まっていたのかなど、平安京遷都前夜の様子がもっと詳しくわかるのでは」と話しています。

左京域の発掘現場。一面に違う時代の遺構が絡み合っている=京都市中京区

 

 平安京遷都から江戸幕府終焉までの1100年間、日本の首都の地位を保った京都。その間に開発と創造が繰り返された地中は時代の痕跡が複雑に絡まり、京都市内の発掘調査は全国屈指の難しさといわれています。

 

 ところが京都市内ではここ数年間、マンションを中心にした大型建物の建設がハイペースで進む半面、専門調査員の数が足りず、調査の可否をみる試掘調査も半年待ち待ちの状態といいます。そんな中で京都市が打った手とは。京都市内の発掘調査に潜む課題に迫ってみました。

 

 

 

  絡み合う遺構

 平安京は延暦13(794)年に遷都された、かつての日本の首都。京内の中心を通る南北道・朱雀大路(現在の千本通)を境に東側は左京、西側は右京に分かれていました。

 

 しかし以後も発展を続けたのは左京域のみで、この結果、左京域の地中は各時代の層が積み重なり、現在の地面から遷都当初の地層にたどりつくのに3メートル前後も掘り下げることもあります。

 

 しかし、ひとつの層にそれぞれの時代の痕跡のみが刻まれているかといえばそうではなく、別の時代の遺構が複雑に絡み合っているのです。

 

 検出した遺構も建物の柱穴とは限りません。井戸やゴミ穴、さらには壁に使う土の採取に伴う大きな穴も出てくる。わずか数百平方メートルの調査範囲で数百、数千の穴が現れることも。

 

 長く平安京の調査を務める京都市埋蔵文化財研究所の南孝雄調査課長は「建物が古くなり柱を抜くと別の土で埋めて整地し、再び建物を建てる、その繰り返しですが、その後に火災の廃材廃棄や土取り目的で大穴をあけると、そこで各時代の遺構も削られます」と説明する。

 

 つまり調査員は、そんな遺構の性格をひとつひとつ見極めながら手際よく正確に調査し、時代ごとに遺構をまとめ、図面化することが求められているといいます。

 

 

  熟練度でランク付け

 ここ数年、年間40件以上の調査が行われている京都市では独自の調査員だけでは数が足りず、平安京の調査経験を持つ調査員が所属する民間の団体・会社の手を借りています。市埋文研など11団体・会社が登録されています。とはいえ団体・会社にも熟練度の差があります。

 

 京都市文化財保護課の馬瀬智光係長は「他府県で発掘経験が豊富な人でも平安京の左京域をいきなり調査するのは難しい」と話します。このため、それぞれにランクをつけ、試掘調査の結果や過去の周辺調査の記録や古文書などで遺構の重要度を見定め、調査をふり分けています。

 

 例えば、天皇や皇族が執務・居住する空間、官庁が集まる京の中心施設「平安宮」を調査できるのは同課と市埋文研のみ。天皇が退位後に住んだ離宮や主要寺院、城郭など主要遺構を調査できるのは前記の2者を加えた計4者で、高度な技術が必要な左京域を調査できる団体・会社も限られています。

 

 とはいえ、市内で調査可能な団体・会社の調査員数は合わせても約40人。調査範囲が他府県をまたぐ団体・会社もあるので、決して満足できる数字ではありません。

 

 

  忍び寄る少子高齢化

 さらに少子高齢化の波が追い打ちをかけます。都市開発が加速度的に行われた昭和期に積極採用してきた調査員が定年を迎えたのに加え、大学でも後進育成が進んでいないことが原因にあげられるといいます。

 

 またベテランは仕事が正確で早く、解釈も間違いありませんが、体力面での心配もあり、京都市では70歳定年を呼びかけている一方、アドバイザーとしての役割にも期待をかけているため、ベテランの在籍が評価の重要なポイントになっています。

 

 そんな中、現場ではベテランと若手を組ませて技術の継承に努める工夫がみられます。大学でも熟練技術を持つ教員がキャンパス内などでの発掘調査で学生を直接指導するほか、長期休み中の調査体験を呼びかけるなどして、学生に興味を持ってもらうような工夫を凝らしています。

 

 現場を熟知する龍谷大学の國下多美樹教授は「考古学界は人手不足で今、危機的な状況にあります。体験を通じて学生が現場に面白味を感じて、一人でも多くの担い手が出てきてくれれば」と話しています。

①	西陣の源流の地にあたる平安宮の大宿直跡で出土した室町時代の建物跡=京都市上京区 

 

 平安京の中心施設、平安宮の北東隅に置かれていた宮中を警備する役人の詰め所「大宿直(おおとのい)」の想定地=京都市上京区=から、宮内が衰退後の室町時代に営まれたとみられる人家跡などが出土しました。

 

 貴族の日記などから、大宿直跡が衰退後、織物の一大生産地として知られるようになる「西陣」を形成する職人が住んでいたことが知られており、調査を担当した京都市埋蔵文化財研究所(市埋文研)は、これを裏付ける初めての史料とみています。

 

 土地開発に伴い令和6年7月から9月にかけて約280平方メートルを調査したところ、建物跡や柵列跡、塀跡が断片的に出土しました。遺構と一緒に出てきた土器などから、室町時代の応仁の乱前の15世紀中ごろに設けられたとみられています。

 

 建物跡は東西5・7メートル以上、南北4・7メートル。柱穴の掘り形は直径0・3~0・5メートル、深さは0・1~0・3メートルで、穴底に平らな石を置く地下式礎石の形式になっていました。また出土した土器の中には古瀬戸の水滴や輸入陶磁器などの高級品も混じっていたといいます。

 

 西陣は織物の一大生産地として全国でも知られていますが、平安宮が衰退し始めた鎌倉時代の13世紀前半ごろから大宿直跡に織物の職人集団が住みついたことが起源とされ、歌人・藤原定家の日記「明月記」などには町の栄ぶりが紹介されています。

 

 その後、応仁の乱が勃発すると職人はいったん京都を離れ、乱の終息後は再び京都に帰りますが、もとの大宿直跡には戻らず、その北に住みつき、今の西陣を形成しています。

 

 今回の調査結果について市埋文研の三好孝一調査研究技師は「西陣の始まりとされる鎌倉時代の遺構は確認できませんでしたが、出土遺物から居住者の財力がわかるなど、繁栄の一端をうかがい知れたのは大きな成果」と評価しています。

 

 

 役所の地鎮跡も

 

 また今回の調査では、平安京造営当初に大宿直の関連建物の建設に伴う地鎮とみられる遺構も出土しました。

 区画目的の「T」字形をした柵列の東西の列と南北の列が交わった部分の近くに埋められていました。

 

②	平安京造営当初に設けられた大宿直関係の地鎮跡

 

 長径0・35メートル、深さ0・40メートルの楕円形の穴の中に6枚の土師器の椀や蓋(直径0・12~0・18メートル)が重ねなれた状態で見つかり、埋土には少量の木炭片が混じっていました。土器内にたまっていた土を洗い。内容物を確認しましたが、見つかりませんでした。

 

 宮内での地鎮跡は、朝廷の饗宴に使われた豊楽殿や内裏の承明門の付近などから見つかっていますが、市埋文研は「平安京造営当初の遺構として興味深い」としています。