小関峻 official blog

小関峻 official blog

宮城県出身のシンガーソングライター小関峻のofficial blog
音楽活動から日常のことまで様々なことを書いています。



久々にブログを書いている。
時間は沢山あるのにブログを書くことは後回しにしていた。


瞬く間にゴールデンウィークが終わった。こんなゴールデンウィークは生まれて初めてだ。
通販のCDの製作、発送作業、歌、ギター、ピアノの練習、配信しかしていない。


緊急事態宣言は案の定延長され、未だに日本中が先の見えないトンネルの中だ。




今までは路上ライブも含めると毎月25〜6本のライブをしていた。
ライブを沢山やることで良かったことは沢山あるが、逆にコロナウィルスによってライブが出来なくなって良かったこともある。



ライブを毎日やっていたものだから、どうしてもギター、歌をしっかりと練習するということを蔑ろにしていた。

最近は毎日部屋に篭って歌とギターの練習ばかりしている。(ピアノも結構練習してる。)

改めて自分のシンガーソングライターとしてのスキルを見つめ直す良い機会になったと思ってる。


こんなに好きなことを好きなだけ練習出来る時間があるって、好きなこととはいえ、珍しいことなんじゃないだろうか。


人と会えない、ライブも出来ない、好きな場所に遊びにも行けない。
そういったストレスは勿論あるけれど、意外と日々は充実している。
自分はやっぱり音楽が大好きなんだと再確認も出来た。




弾き語りを始めたての頃、上手くなりたくて毎日、学校から家に帰るとカセットテープに弾き語りを録音しては聴いて、違う、違う、違う、
と繰り返した。

あの時の感覚を今、毎日思い出している。





先日、妹から「ベースはピックで弾くのと指で弾くのどっちから始めてもいいの?」とLINEが来た。

自粛ですることがなくて、新しい趣味を始めることにしたらしい。

そういえば婆ちゃんの葬儀で実家に帰った時、関ジャムのリズム隊特集みたいなやつを観ながら

「ベースやってみたいんだよね」

と溢していた。


うちは三兄妹で兄も昔ベースをやっていた。そのベースは俺が貰って大学時代バンドサークルで使っていた。今も宅録やデモ音源を作る時に使ってる。


ギターではなく、ベースをチョイスするあたり、妹と兄は似ているんだろうか。
二人とも今は学校の先生をやっている。



その数日後「チューニングの仕方がわからない」と連絡が来た。
凄く丁寧にベースのチューニングの仕方を教えてやったのに、チューニングで弦を切って練習する前から挫折していた。

コロナウィルスで楽器屋も開いていなくて弦も買えない、と言っていたので「Amazonですぐに買いなさい」と言っておいた。




コロナウィルスは恐ろしい。そしてものすごく憎い。


一体いくつのイベントが中止になっただろう。
我々の日常と自由を奪い去り、今なおその猛威は収まる様子がない。

だけど、このコロナがなかったら気付けなかったこともある。
この期間に配信をしていたことで出会えた人もいる。


この期間に何をしていたか、何を考えて過ごしていたかが、音楽家として後々とても大きな意味を持ってくる気がしている。

だから、ダラダラ過ごしてしまいがちだけど、毎日今しかない時間を大事に生きたいと思う。





SNSではそれぞれがそれぞれの正義を掲げてまた誰かを傷付けている。
自分も知らないところで誰かを傷つけてしまったかもしれないと思った。

今、自分に何が出来るだろう。
未だに考え続けているし、悩んでいる。

どちらが正解だろう。正義なんだろう。

わからないけれど、大切な人も大切な場所も守りたい。

守りたい人も場所もそれぞれ違うから、争いも起こる。


優しい歌を歌いたい。


世界中の人が幸せにと願えるほど欲張りではないから、せめて自分に関わった人たちは幸せで、元気でいて欲しいと願う。
十分欲張りか。


俺はすごく前向きに生きてるよ。



今日、新しい配信の機材を購入した。

みんなが通販でCD買ってくれたからだし、配信で毎日投げ銭してくれたり、有料の配信も観てくれたからだよ。
本当にありがとう。


配信のクオリティを上げて一人でも多くの人に自分の音楽を届けたい。
今出来ることを最大限試していきたい。



ピンチはチャンスなんた嘘だ。
ピンチはピンチだろ。


そんなツイートを以前見た。


気持ちはわかる。ピンチはチャンスなんて綺麗事に聞こえる。
けどそう思ってしまったらそれは本当にピンチなんだろう。


陳腐な言葉かもしれないけれど、ピンチはチャンスだって思えた奴にとっては本当にチャンスなんだと思う。


俺は本気でこれはチャンスだと思ってる。


色んな意味で。



みんなにとっても、きっと。



頑張ろう。
そして必ずまた元気で会おう。










実家に帰る度に思うのは、納豆ってこんなに美味しかったっけ。ってこと。


東京でろくなもん食べてないだろうと、母はいつも手の込んだ料理を振る舞ってくれるのだが、何故か実家に帰ると無性に納豆が食べたくなる。


細かく切ったネギと、付属のカラシとつゆを入れよくかき混ぜる。それをあったかいご飯にのせて食べる。何の変哲もない納得ご飯。

納豆ってこんなに美味しかったっけ。

ジャンクフードで汚染された身体が少しでも健康的な食べ物を求めているのか。





3月30日。

良いものを食べて沢山寝たからか、体調の悪さは大分良くなっていた。
メンタル的な部分も大きかったんだと思う。

「いつまで寝てんの。志村けん亡くなったよ。」

母のその言葉で布団から飛び出した。


テレビは志村けんのニュースで持ち切りだった。
亡くなったのは前日の夜とのことで、祖母が亡くなったのと同じ日だった。


流石に志村けんの訃報は凄くショッキングだったが、祖母が亡くなった直後だっただけに、感覚が麻痺してるようだった。



実家に帰ると必ずといっていいほどポンの散歩をしていた。

ポンが昨年末に死んでから二度目の帰省だったので、ポンの散歩に行かなくていい現実にも未だに違和感があった。

代わりに風呂の掃除をしたり、部屋中クイックルワイパーをかけたりした。



空いてる時間はピアノを弾いて歌ったりした。
歌うことに没頭してる時間は色んなことを忘れられた。

ピアノを弾いてると、部屋に兄と姪っ子が入って来て、きらきら星を弾いてとせがまれた。
きらきら星が凄く好きらしかった。

弾いたことなかったけど、探ったら割と直ぐに弾けた。姪っ子は喜んで歌っていた。

会う回数はそこまで多くないものの、雰囲気が兄に似ているからか、姪っ子はそこそこ俺にも懐いてくれていた。



夜は父と母と兄と妹と麻雀をした。

亡くなった婆ちゃんは麻雀が大好きだった。

追悼麻雀大会だと母は言った。
父が婆ちゃんの写真を持って来いと言い、遺影と同じ写真の一回り小さいやつを持ってきてリビングの机に置いた。


ちょうど、妹の真後ろに婆ちゃんの写真が置かれたことで、

「よし、私には婆ちゃんが付いてるから勝てる」

と妹は言ったが、

「いやいや、婆ちゃん、全然強くないからなあ」

と俺は言った。



兄は2〜3歳の頃から麻雀牌に触れていたらしい。
俺は小5からだったと思う。


爺ちゃんと婆ちゃんは麻雀が大好きだったから、いつも近所の人達とわが家で昼間から麻雀をしていた。

土日の夜なんかは時々、父と母と兄と自分も加わって交代でよく麻雀をしたものだった。


妹は自分だけ麻雀に参加できないことをずっと不満に思っていたらしい。

ここ数年でいつの間にか麻雀を覚えていた。
(平和もよくわかっていないようだったが)



ビールを飲みながらやったせいか、普段ではあり得ないようなチョンボをしてしまった。
(テンパイしてないのにリーチをかけてしまった。)



特に何のドラマもない平凡な半チャンは、俺と妹が大敗して幕を閉じた。

兄と父は安定して強い。

母は多分、俺と同じくらい。
妹はビギナーズラックだけで大検討していたが、最終的には大負けしていた。


「コロナで仕事がなくなってる峻が交通費くらい稼げるといいね。」

と母は言ったが、兄と父は容赦なかった。








「峻、今夜やるか〜!」


麻雀牌を掻き混ぜるジェスチャーをしながら、ニコニコ笑って俺を麻雀に誘ってくれた婆ちゃん。

小学生の頃なんかは負けると本当に悔しくて泣いたこともあった。



今日は負けたけど、不思議と悔しくはなかった。
多分妹もそうだろう。

凄く暖かい、優しい時間だった。


翌日のお通夜、翌々日の告別式の事務的な話を母として眠りについた。

棺の中に家族みんなメッセージを書いて入れたのだが、

また一緒に麻雀しようね。婆ちゃんにも聞こえるように歌うね。


と書いた。






お通夜、告別式も滞りなく進んだ。
コロナの影響で親族のみで行い、部屋の扉も常に開けたままだった。


「火葬っていう作業は、一番現実を突きつけられる辛い作業だよね。」


火葬場に移動する車の中で母が言った。

本当にそうだと思う。


爺ちゃんが亡くなった時、夜に東京でライブがあった為、俺は告別式だけ出て直ぐに東京に戻った。故に爺ちゃんの火葬には立ち会っていない。

物心ついてから火葬に立ち会うのは初めてだった。


火葬場は凄く嫌な匂いがした。


最後のお別れをすると、火葬が終わるまで1時間半ほどかかるのでお待ち下さいと言われた。
そんなにかかるのかと思った。

待合室でお茶と助六寿司が出されたが、食欲はなかった。
重苦しい時間だった。



火葬が終わった。
ディズニーランドのタワーオブテラーの最初の広い部屋みたいな薄暗い部屋に入った。
俺は初めて人の骨を見た。

部屋の中は魚が焦げた時のような臭いがした。
魚じゃなくて、人なんだ。婆ちゃんなんだ。

そう思うと恐ろしくなった。


イメージ通りの骸骨がそこにはあって、これが婆ちゃんだと言われても全然しっくりこなかった。

こんなにはっきりと頭蓋骨が残っているのは100人に1人のことなんだと説明された。
へー、と思った。

婆ちゃんの骨を骨壺にみんなで入れて、お墓へと向かった。



爺ちゃん、曽祖父、曽祖母が眠る墓に婆ちゃんの骨を入れた。

墓跡を退けて、穴蔵を見るのも初めてだった。
ヤクザものの映画でここから拳銃を取り出すシーンを思い出した。

当たり前だがそこに拳銃はなくて、汚れた骨壺と、白い物体があった。

骨壺の方が爺ちゃんで、白い物体は曽祖父、曾祖母の骨だと説明された。
曽祖父たちの骨壺は風化されて、骨だけになっていた。

このまま時間が流れていけば、剥き出しの骨さえも風化して消えてしまうのだろうか。



「俺が死んだら、この家が見える高いところの墓に入れて欲しい」


生前、爺ちゃんはそう言っていたと妹が言った。


爺ちゃんの希望通り、震災後に曽祖父、曽祖母の墓をもっと高い位置に移した。

そこはちょうど震災で引っ越す前にみんなで住んでいた家の真裏にある山で、白石の街がよく見えた。



今はもう更地になってしまったその家だが、そこの裏山も庭のようによく遊んでいたから、とても懐かしかった。



よく、お通夜やお葬式で「お別れしてくる」といった言葉を耳にするのだが、
一通り儀式を終えても、不思議と「お別れした」という気持ちにはならなかった。


それはネガティブなものではなく、説明するのが難しいのだが、
姿、形がなくなっただけで、
いやいや、ここにいいるじゃないか。

そんな感覚だった。



小さい時、飼っていたインコのピーちゃんが死んだ時、胸が千切れる程悲しくて、怖かった。
生き物の死というものが。


勿論、今でも恐怖はあるのだが、あの頃とは違った穏やかなものが心にあった。


この感じはなんだろう。大人になったと言ってしまえば陳腐だが、そうなのだろうか。


ポンも爺ちゃんも婆ちゃんも、もう触れることは出来ないし、話することも出来ない、
だけど、これからもずっと一緒にいるんだなという気持ちだった。

スピリチュアルな話とかでもなく、強がっているわけでもなく、ただ俺はそう感じた。


桜の花が冷たい風に揺れていた。




麻雀は弱いから家族以外の人とは多分これからもあまりやらない。負けず嫌いだから、余計に。


婆ちゃん、また麻雀やろうね。

あと俺、今も歌を歌ってるから、時々聴きに来てね。