クリミアの歴史と宿命 (1) | ソ連風来坊のブログ

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台湾出身の一匹狼、旧ソ連陣営と東アジアを報道

一昨日は、クリミアがロシア連邦へ加入した三周年に当たり、モスクワを始め、各地で盛大な記念イベントが行われた。

西側とウクライナ当局は終始認めないにもかかわらず、ロシア民衆は全く相手にせず、熱烈に祝うことにした。


面積が3万平方キロにも達してないこの半島、古くから衝突が多くて列強諸国の争う焦点となっている。今回のきっかけで過去を振り替えながら勉強してみたいと思います。

 

 

話は例の「タタールの軛(くびき)」から始まる:

 

昔、本ブログで紹介した通り:東欧制覇を果たし、二百数十年間ロシアを支配してきたモンゴル帝国のジュチ・ウルスが15世紀中葉から多くのハーン国に分裂していた。クリミア・ハーン国(Крымское ханство)もその一つであったが、タタール民族諸ハーン国の中に最も精悍でモスクワにとっては最も手ごわい相手であった。

当時、日々壮大していくモスクワ大公国に対し、クリミア・ハーン国の策略は南にある親類:オスマントルコと手を結ぶことにした。オスマン朝の力を借りてモスクワ大公国に対抗し続けた。

 

16世紀中葉、カザン・ハーン国とアストラハン・ハーン国を次々と攻略して降伏させたモスクワ大公国のイワン雷帝が民族の解放を成し遂げたとはいえ、未だに万全とは言えない。両ハーン国とは血縁関係を持つクリミア・ハーン国のデヴレト・ギレイ(Девлет-Гирей)復讐宣言を明かした。

 

1571年、モスクワ大公国の主力部隊が遠征に立った隙を狙ってデヴレト・ギレイが12万の精兵を率いてモスクワへ突撃をしかけた。

あまりにも突然な襲撃に遭ったモスクワが大きな被害を受けた。数万人が殺害されたほか十万人ほどが虜になって強制連行されたうえ奴隷に強いられた。

 

辛い経験をしたモスクワ大公国がこれから警戒を強め、翌年の強襲は防いだものの、徹底的に根絶できなかった。しばしばクリミア・ハーン国の兵力を領内へ突入され、領民を攫われて奴隷にされたほか、後にまた買い戻すように強要されることに手を焼いた。

 

というわけで、クリミア・ハーン国をめぐる紛争があってオスマントルコとの対立も深まり、戦争に及ぶもしばしばだった。勝利を積み重ねることによってロシア側がだんだん優勢を取り戻し、やっと18世紀後半の1768年、第五回露土戦争の勝利によってクリミア・ハーン国をオスマン帝国の保護より切り離し、後の併合に成功した。これでようやくロシアは「タタールのくびき」より完全に解放された。

 

(続く)

 

参考した資料はこちら:
https://ru.wikipedia.org/wiki/Крымское_ханство
https://ja.wikipedia.org/wiki/クリミア・ハン国
https://ru.wikipedia.org/wiki/Русско-крымские_войны
https://ru.wikipedia.org/wiki/Крымский_поход_на_Москву_(1571) 
http://nnm.me/blogs/atck/445-let-nazad-voysko-krymskogo-hana-devleta-i-geraya-sozhglo-moskvu/page2/ 

 

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