もう立ち仕事は、
一生無理と言われた私は、
手元の現金が怪しくなっていた。
そこに、
河北新報おおさき河北から、
記者にならないかのお誘い。
長く文章は書くものです。
足の都合で運転できない〜ウソです、両親に、危ないからと言われ、ペーパーです。
旨を伝えても、
運転手つけるから是非来てくださいと、
半月で正社員ですと、
破格の条件。
画して、
私は31歳にしてはじめて、
家以外の場所で働き始めました。
11月28日。
なぜか私は朝から、
市立病院にいて、
たぶん取材許可を直接もらいにいったのでは?、
そしたら、
父の名前が整形外科で呼ばれました。
一瞬柱の陰に隠れました。
でも、
隠れるのもおかしいと思い直し、
整形外科外来に。
父と一緒に診察室に入ると、
父は左足の切断を回避するために、
仙台の病院に転院するために来ていたとわかりました。
回避するためには、
足の血管のバイパス手術が必要で、
体力的にも、
手術中に、
亡くなる率が高いと言われました。
父は、
古川中学陸上部のエースでした。
貧しい家でも進学が許されれば、
もしかしたら、
東京オリンピックを走っていたかもしれない。
私は、
切断したくない父の気持ちをとりました。
財布の中にはもらったばかりの初給料。
15000円が入っていました。
会社に資料の本を買っていかねばならず、
迷いましたが、
父には、
5000円あげました。
…全部やればよかった。
少しは親孝行できたのに。
父は、
くしゃくしゃになって泣きました。
これで、
バレーシューズ買って、
退院したら、
リハビリ頑張って、
歩いて見せるからと言いました。
それが父と会った最後です。
4日後、
12月1日午後7時37分。
頻繁に鳴らすナースコールは、
抜かれた部屋で、
一人で逝きました。
糖尿病の突然死。
合併症のフルコースフィニッシュです。
医者の説明では、
点滴などの管を全部抜いて亡くなったとのこと。
しかし、
父の身体には、
注射針の跡一つない、
きれいなものでした。
死亡診断書の死因は、
急性心不全。
心臓が止まったから心不全は、
わかるんですが。
訴えないから、
本当の遠因が今からでも知りたいです。
廊下でワンワン泣く彼女と母を、
父のそばに置いて、
私は葬儀社〜私の懇意の素晴らしい桜葬祭さん〜に連絡したり、
父の遺体の搬送手続きしたり。
集まった親戚には、
冷酷な娘に映ったようです。
父は私だけの父として送る。
泣かない。
これからは、
もう社長でも、
祖母の息子でも、
叔母たちの兄でもなく、
彼女の彼氏でもなく、
一番後だった、
母の夫で、
私だけの父として、
生きていってもらう。
父が焼かれる前に、
私は父に、
初めてキスをした。