⚫金沢からむかってる道は海岸沿いか半島中央の高規格道路 後は海路のみ ほとんど平地のない能登半島は道路が寸断されると たどり着けないです。 山間に点在する集落とか被害を把握するは難しいのでは もうすぐ寒の入り 積雪が始まるまでに道路の確保は急ぎたいですね。


雪が降る前に全員を退避させないと、衰弱して終わってしまう人が出る。 支援物資運ぶのが困難な場所を素早く往復できるのか???? 無事な人を救出するのが先ではないか?と思う。臨機応変に対処してほしい。


⚫能登半島って金沢を起点に能登半島の先までの往復で確か300㎞以上あったと思います。しかものと里山道路が使えないとすると、車の移動は相当時間を要することになっているはずです。 港も被害を受けているとすれば、効率的なヘリを利用するしかないのではないでしょうか。 報道ヘリも地域を分担して、ある程度救援物資を運ぶ役割を持たせることも検討できないのでしょうか。 行政はみんなで「できること」に知恵を絞って欲しいです。


ひなびた観光名所、“物がない良さ”、“古き良き日本の郷愁”を求めて多くの観光客が訪れる土地。 必然的に高齢者が増え、機動は遅い場所だったろう。 日本各地にそのような所はあると思うので、教訓にして今からでも備えを見直す土地と、そうはならない土地とで差は出てくると思う。


遠隔地は本当に難しい。集落へ行ける道が1本しかなくて、そこが崖崩れなどで寸断されると辿り着けない。今自衛隊が必死にやってるのは道路を直しながらのルート確保。それをやらないと、何千人何万人送り込んでも届かない。 だからこうした集落では普段から無補給で数週間生き延びる備えが必要なんだと思う。


今できないことを言っても詮無いかもしれないが、消防署を中心に配備が期待される災害用の大型ドローン。技術面ではほぼ実装レベルに達していると言われてるが、法整備や運用ルール策定の遅れ等もあって、国策としては牛歩で停滞中、一体いつになることやらという状況。 少なくとも現段階で国交省が求めてる実証飛行(支援物資の運搬など)の一部でも、能登で行えないものか。もちろん被災者の安全は最優先で確保する前提で。平時で行う実証飛行より余程有意な結果や経験値が得られると思うし、開発や法整備にも加速が着くはず。火事場で実証など悠長でけしからんとの誹りはあるかもだが、能登も含めて次の災害は待ってくれない。次の機会には本格投入できるくらいでないと、被災者が一番辛い時期の支援策は強化できないと思う。


⚫ヘリの離発着、まして最大離陸重量に近い搭載物資でグランドに接近すると崩壊していない家屋まで潰されます。避難者がいる,テントが有るのが現実です。事前調査して、確認して地上(機上)誘導員が配置されてからです。 投下は危険すぎます。地震で派遣の時にヘリで着陸を試みましたが,グランド(県が指定した、防災拠点のHヘリポート)が上空でみたら、何と牛、車、焚き火、テントで、すきまなし。 しかしマスコミは物資の空輸も出来ないと散々叩かれました。 でそのまま新潟空港へ帰投しました。本当に悔しいフライト、こんなもんです現場は。 ルールと現実は違います。みんなで守ることにその目的が達成できます。


みんな力を合わせて頑張ってほしい。 被災地から遠い我々は正直何も出来ないけど、これらを学びに変えていかないといけない。助けなんてすぐ来ない。自助と共助の必要性が公助よりよっぽど重要であること。 日頃から防災対策として数日、数週間をしのげるための備蓄が必要なこと。 非常用電源(バッテリー)が必要なこと。次に繋げていかなくてはいけない。


災害時は自助、共助、公助の順です。 被災を経験した者からしたら当たり前の事ですが、災害を我が事と捉えず準備されていない人の何と多いことか。 災害は時を選ばず起こります。被災者の救援第一ですが、被災地でない人は、被災者への協力に加え、災害に備えての準備をお勧めします。


経験者として、その通りです。 私のとこへ最初に来た公助は被害調査員でした。


同意です。せめて必要最低限で良いので1週間程度は自力で生活出来る物を各個人用意出来ていれば違うと思います。


しかし今回被災しなかったエリアの人は今は準備する時ではないと思う。 たとえば災害用簡易トイレの買い占めとか。


>食べるものを持ってきてくれないことよりも、まず自己を守るために日頃からどう動いてきたか


 揺れと津波で壊滅状態では、例え備蓄があったとしても取り出せないのでは?



私も町は都会でしたが支援が来たのは何日も経ってからでした。 それまでは自分の必要としたものは自分で手に入れてしのぎました。 水が欲しければ川に行って汲んできて、暖がいるなら壊れた家の材木をもらってきてドラム缶で燃やして上に網を置いて食べる物を作りました。 じっとして行政を頼りにして文句ばかり言ってる人がいましたが、非常時には行政も動けません。 自分の家族を守るには自分が動かなければいけません。 それが非常時です。 考えましょう。 知恵を絞りましょう。 生きて行くために。


中越地震のときの震央の町がこんな感じでした 被害状況すら誰も知らないブラックホール状態で 数日は支援もなにもない中を自力で過ごしました 幸いだったのは冬前だったことと井戸水の家があったこと 布団や米、袋麺などを傾いた家々から持ち出せたことです トイレなんてそんな、極限状態になれば何でもできます 女子供だってそこらの藪の中、畑に穴を掘ってでも済ませました あの時は地方で起きた地震にしては日本全国、世界中が大騒ぎでしたよね それは大きな地震でしたが人的被害としたら今回のほうがずっと甚大です 正月最中のせいなのか報道も支援の感じも少ない気がしてなりません 何とかならないのかともどかしい思いでいっぱいです


🔘この記事に書かれた珠洲市三崎町寺家を地図で確認しましたが、能登半島の最先端の地域ですね。 みなさん頑張って自分に可能な救援活動を行なってると思いますが、やはり物理的地理的になかなか到達するのが難しいというのが現実でしょうね。


🔘地図を見てお分かりいただけると思いますが奥能登へ行くルートって限られてる、他県だったら東西南北どこかしらのルートはあると思うけど、奥能登は南からしか入れない しかも今回は奥能登に入る入り口が1番酷い地域なので奥能登にも行けない いま自衛隊のヘリがずっと行き来してる ありがたい話です


被災された方々には気の毒だと思うが、遠隔地で暮らすリスクは認識した方が良い。日本全体が衰退し、当たり前に誰かが助けてくれる時代は終わりつつある。インフラの維持や被災時などにおいて都市と同じように対応してもらうことは優先順位から難しくなりつつある。それでも遠隔地で暮らすなら、自分の身は自分で守る覚悟が必要だと思う。


本当にそれに尽きる 都会に住むには費用がかかる 田舎のお年寄りは都会に出てきたがらない けどいざと言う時に結局こうなる 冷たいようだが命を守りたいなら生まれそだった過疎地を出る覚悟してほしい


その衰退している日本をあなたの言う「遠隔地」が支えてくれている。漁業や林業、畜産酪農、工芸の産地があるから都市部の人間が安心して豊かな生活できるのだという当たり前の事を忘れないで


ここ、車で走った事があります。

崩壊している道路

海がすぐ横にあり、波間から赤黒い岩肌が続く道

昭和時代でストップしたような町の風景があった。若い世代は都会に出て行き、高齢者が長年住んでいる住宅を守ってきた様子を感じた。

道路が崩壊したら物質が搬入されないと思った


限界集落で被災した場合、都会に避難生活、移住となると、高齢者は精神、健康不安になるだろう。生まれ育った場所で最後までいたい気持ちは、田舎の人にはあるから、ひなびた過疎地域になっても離れる事なく暮らすのである。

都会のコンクリート、深夜でも明かりがある生活、騒音、近所の人が全く見えない、庭もない生活は、高齢者には対応が難しい事になると思う。


引っ越しは、精神的にもかなり負担になるからだ。生活拠点をすぐ変える事は、難しい。


となると、日頃から備えをなぜしていないのかと

言われてしまう事になるが、画像検索して見れば、現状が多少なりとも分かると思う。

あの状態で、どうしろ?と

それくらい悲惨な惨状

高齢者が、気力も無くすのは、仕方ない。

一気に崩壊した様子がわかる。


ここは、雪や風がひどい地域だから

重くて黒い瓦屋根の住宅が昔から作られてきた。

黒いと雪が溶けやすいからと聞いた。

そのような住宅がたくさん崩壊している。


若い世代は少なく、高齢者が多いと思われるから

この街の景色は、再現される事はないだろう。

あとから作られる住宅は、新しい形になるはず。

公園になる可能性もある。


高齢者の人達がかろうじて守ってきた、

古くからそこにある街並みがあったからだ。

そこを海を見ながら通過した時に思った事は

古きよき時代の精神を感じる事ができる場所だった。

必要最低限のものがそこにあり、バス停も昭和に作られたままだった。

海辺に降りて行き、赤茶色の穴ぼこだらけの丸い石を2つ拾い、持ち帰った。

そこにしかない石。


七尾市から輪島市内に行った。

輪島の朝市も壊滅。

漆塗りのお店が2軒ならんでいて、最初の1軒に入り、お抹茶を入れる漆器を見た。

サザエと蛤が螺鈿細工された赤い漆器

すごく綺麗だったので覚えている。

お値段は、78,000円だった。

高くて買えないので、もう少し歩いて入ったお土産物屋さんで、卵の殻や貝細工が入るお箸760円を買って10年使っていた。

非常に丈夫で美しいお箸だった。

同じものをずっと探していたがなくて、また輪島にあるかなと思って、輪島の朝市を検索してみていた去年末。

年明けから輪島の朝市が炎上しているニュース。

ショックだった。


お箸を買ったお土産屋さんも漆のお店も全焼。

お箸を買ったお土産物屋さんは、建物の骨組みが残っていた立派な作りのお店だったんだなと、だから長年、建物が使えていたんだなと思った。


全部燃えてしまった。

自分ですらショックであるのに

地元の人は、


輪島塗のお箸は、大変丈夫で長持ちします。

これからも買います。


能登半島は、何もないけど

何か大事な事を感じさせてくれた

場所でした。


これが、限界集落になっても

そこで生きる気持ちになっていると

思うわけです。

行った人は、感じると思う。