どーも、そらおちゃんだよ。
前置きが長い病気。きちんと簡潔にまとめようとかブン投げてだらだら書くそれが趣味。
その人がどんな人かというのは、見る人や角度によって異なるのはもちろん分っております。その昔、自分に関するアンケートを書いてもらったり、それこそ熱心にブログ活動していた時代なんかは匿名でボロクソ言われたり、ずーっと接客業なので平均の数倍は良くも悪くもあれこれ言っていただいてる気がしています。
人の見方は、誰のどんな感想も、それはその人の感性なので合ってるも間違いもない・・・と「基本的には」思ってますが、まぁゆうて誤解に基づく判断もありますし、解像度、というのもあると思っています。
とある行動ひとつ取っても「どういうつもりでしたか」で全く解釈が変わりますし、どういうつもりでしたかを推測するこちらの精度の問題もあります。そしてそれをちゃんと確認しようとするか、本当の事を言ってもらえる自分であるかなど、理解というのは沢山のハードルがありますよね。
人の気持ちなんて、相手がどう言っていようと嘘の可能性は常にあり続けて確定しない・・・こういう事を、諦めてブン投げず、どこまで面倒くさがらずにやっていくかで推測の精度は上がると考えています。「私の気持ちの正解」は私にしか分かっていないわけですが、「この人はちゃんと当ててくる」という人と「見当違いな事言ってるなぁ」という人は必ずいて、何人もそういう人に会った結果、やっぱり理解へのプロセスを端折らない人、努めてる、努めようとしている人の方が圧倒的に精度が高いからです。
自分の気持ちの事なら正解分かりますからね。まぁそれでもこちらが努める場合は「確定するのは行動だけで、気持ちは絶対に確定しないけど」という前置きは捨ててはならないと思っています。
蛇足。
以前noteで書いたけれど、安易な決め付けは自分の脳のためにも良くないというお話。
”前頭前野は、分析的思考や客観的思考を行う場所。つまり前頭前野が衰えていない人は、普段から「自分はこう思う」「こうに決まっている」といった固定化された通念や常識・偏見をうのみにせず、常に事実やデータをもとに合理的思考や客観的思考を巡らせている人だと考えられるわけである。
脳を委縮させないために必要な事
↓
安易なカテゴライズ、レッテル貼りに逃げない
「Aは○○だから」「知ってるよ、Bって××なんでしょ」というようなカテゴライズ(レッテル貼り)をしがちな人は要注意。レッテルを貼ることでまとめて情報処理ができれば、前頭前野を働かせずに済むため脳は余計な労力を使わなくてよいことになるからだ。
そういった安易な逃げにはまり込むリスクを認識し、単純なレッテル貼りを気持ちよく感じてしまう裏側には脳の弱さがあるという背景を、しっかり理解しておくことが大切なのだ。”
という旨の脳科学者の書いた本があって、この言葉は効いた。加齢と共に絶対脳弱ってるわ、と気持ちの引き締めになった。
もちろん、決め付けのメリットも十分に分かっていて(楽で速い)、時と場合で使い分けたいと思ってたりもする(時間を食うからある程度の自動化は要る)。あと、色んな経験から得た知見と決め付けって何が違うの?という余地も残さなければならない(決め付けだと決め付けるループ)。まぁそんな事を書いたやつは↓にあるので割愛。
どう理解しどう認識するか、という事を視覚で例えると、
例えば私の事をこう見えてる人
ありがとう。そのままでいてください。
でもあなたの水晶体には加工アプリが仕込まれていますよ。
まぁゆーてだいたいの人が
こんくらいなんじゃないかと思っていて
んで、よー知らんて人にとっちゃー下手したらこんなもん。
もう情報として「おんなの人(多分)」くらいしかねぇな。
その上で個々のフィルターありますからね。青いフィルターかけてたら、赤い私は紫!みたいな。
なんだか長々前置きしてみましたが、まだドッド絵くらいでしか知らない誰かに話すと思って書いてみます。
私がどんなやつか?ものによっては両極端な評価すらあります。
やかましい、だらしない、雑、いいやつだ、いやきたねぇやろうだ、愚か、おもしろい人、いいやつまんねぇやつだ、欠点が少ないよね、いいとこ一つもないよね、目立ちたがりだ、いいや本当は裏で楽したいタイプだ、まぁもうたぁっくさんある、全部実際に言われた事ある。っていうかもう物事も人も、どこから見るかでしかないとかもあるなかで、まぁ割と議題になる(?)「いいやつ」かどうかについて自分で喋ります。
…それで「一生肩に力の入ったヒヒヒヒユウマニティ」っていう記事書こうとして前置き書いたりふざけたりしてたらこの分量。続きはまた今度書くね☆(何やねん)