現代の社会では商品を売ったりしてお金を得ている。
それが経済システムの基本とも言える。
遙か昔、縄文時代は貨幣がなかったと思われる。
その頃の人達は、どうやって生活していたのだろう?
そう考えたことはないだろうか?
「宵越しの銭は持たねぇぜ!」
そもそも銭が無かった時代。
人は何を頼りに、生活を営んでいたのであろうか?
空の宇珠海の渦を書くに当たって、
縄文時代の生活を調べたことがある。
平安時代の貴族の生活は残っていても、
庶民の生活の資料はほとんどないのだ。
時代を遡れば見えてくると思い、調べていた。
そこで、見えて来たものが、現代とは違う豊かさであった。
「何も無いが、全てがある」
その生活に、感動さえ覚えた。
それは、どういうことかというと…
現代のようにスマホやテレビ、自動車などの便利な道具は無い。
だが、生きる為に必要なものは全てある。
そういうことだ。
自然にある物は、みんなのものだ。
誰のものでも無い。
それを、皆で分け合って生活している。
そんな、印象を受けた。
生きて行くことに、それほど不安は無い。
食べ物は、自然が十分に恵んでくれるからだ。
ここで、大切な事は「分け合う」という精神だ。
「分け合う」ことで皆が自由に楽しく暮らしていけたのだ。
しかし、現代に目を向けてみると…
この「分け合う」ということが難しくなっている。
自然が「誰かの物」になっているからだ。
誰かの物を分け合う事はできない。
独り占めの構図がここに出来上がる。
この構図の始まりは恐らく弥生時代。
大陸から、人と同時に「支配」の思想が入ってくる。
「分かち合う世界」から「支配と隷属の世界」へと変わるのだ。
支配する者、される者…
争い、奪い合う世界…
それが、現代まで続いていることになる。
商品には原価がある。
そこに人件費などのコストを上乗せする。
そして、利益を乗せ、売値を付ける。
利益の中には付加価値が含まれる。
この付加価値の魅力が、商品力になるだろう。
だが、この形…
私は気に入らない。
なんか、騙されている気がするのである。
原価+コスト=1万円の物を、
付加価値を含めた3万円で買うことに抵抗を感じる。
「それでは、商売が成り立たない!」
そう言う声が聞こえてくる。
実は、そうなのだ。
現実に商売が成り立たなくなっているのは、
恐らく、これが理由なのだ。
既に、皆はそのことに気付いているのである。
だから、物が売れないのだ。
この世には、お金に換えられないものがある。
お金を出しても、手に入れられないものがある。
それらのほとんどは形が無い。
分け合うべきものがある。
人は大切な物を知っているのだ。
売る側が勝手にこじ付けた付加価値。
そんな幻想には、もう惑わされない。
そういう時代に突入しているのだ。
波動が上がれば人の意識も変わる。
意識が変われば、住む世界も、必要なものも変わるのだ。
低きものは振り落とされ、
高きものは融合して行くだろう。
人の価値観も変わって行く。
「共に認め、共に生きる」
全てが調和した世界が理想と言えるだろう。
既に、地球の波動上昇は完了したように感じる。
舞台は整ったと言えるだろう。
後は、私達が「何を選ぶか」だけである。