息子のサッカーの試合を見に行った時の話だ。
子供達の準備体操を見ていたら、
ある子が息子に何か話しかけた。
すると、息子が私の方を向いて手を上げた。
そして、その手を前に突き出した。
これは、「下がれ」の合図である。
私は、何もしていない。
準備体操を見ていただけだ。
ついでに、みんなの精神状態をチェックした。
それだけである。
私はその時点で理解していたのだが、
後で息子に確認した。
「準備体操の時、何か言われたやろ…」
「お前ところのお父さん、何見てんねんって言われた」
その子は、ときどき息子をからかう。
簡単に言うと、痛い側の協力者である。
自分の中に罪悪感がある。
だから、私に見られると心地悪いのだ。
実は、私はその子よりも他の子が気になっていた。
それでもそう思うのだ。
相当気にしているのだろう。
この前、息子が眼鏡を買った時も…
何を言われるかは想像できる。
「〇〇××は絶対に言われるから気にするな」
「眼鏡をかけたら誰でも言われることや」
学校に行く前、その内容を言っておいた。
結局、私が言った通りのことを言われたようだ。
だが、息子は私から同じ言葉を一度聞いている。
それで、ダメージは半減されたようだ。
ある程度の覚悟が出来ていたからであろう。
その子供が私を見て気になったのは、
畏れを抱いているからだ。
『俺がしている事を知っているから、睨んでいるんだ…』
だが、私はそんなことは思っていないし、睨んでもいない。
ただ、見ていただけだ。
しかも、君では無い、他の誰かだ。
その子をそう思わせるのは「罪悪感」だ。
その心の中に、畏れが存在しているからだ。
畏れはエネルギーを下げる。
協力者がエネルギーを下げている、いい例である。
可愛そうであるが…
しばらくは、私の姿を見る度に、びくびくすることになるだろう。
協力者は自らでエネルギーを落としている。
誰かの為に…
協力者がそれに気付くのは、全てが完了してからだ。
自分の身に同じような事が起きるとか…
何らかのミッションが発生する。
人は自らの目的に向かう。
ほとんどの場合、エネルギーを落としたままでは達成できない。
全てはエネルギーである。
どこかで、必ず、上げるためのミッションが発生するのだ。
私の経験上、痛い協力者は必ずそうなっている。
だが、それは誰にでもあることなのだ。
人と関わることで、目的が達成できる。
関わらないと達成できない、と言うべきであろうか?
痛い原因は必ず自分側にある。
それを捨てることで、新たな回路が繋がる。
エネルギーの滞りが消え、器も広がっていく。
子供達も…
仲良くすれば、びくびくせずに済む。
だが、ちょっかいを出したくなる。
協力者も、エネルギーレベルでは苦しんでいる。
そう思えば…
有り難いことかも知れない。
誰の指示かは…
考えなくともわかることだろう。
そこにも、秘密が隠されているのだ。