先日、食事中に梨をむく話になった。
「食事のデザートに梨をむいて…」
という、ありふれた日常の一コマ。
「自分でむけないのか?」
(関西弁では”ようむかんのか?”)
私が言うと…
「りんごの皮むきのテストで…」
娘がそう言った。
「なんだ!それ!」
昭和生まれの私の驚きは、果てしない。
りんごの皮むきのテストがあるなんて…
信じられないにもほどがある。
ここには、二つの驚きが存在する。
「学校で教わることなのか?」というのが一つ。
「皮をむいたリンゴをどう採点するの?」というのが二つ目だ。
そもそも、種以外は食べられるであろう。
(芯の部分は食べにくいが…)
これを、どう切り取ったら高得点かが分からない。
(うさぎの耳とかするのであろうか…?)
恐らく…
こうしたら高得点という「例」があるのであろう。
だが、それは誰かが決めたものだ。
私の娘は芯の部分を残しすぎて、減点されたと言っていた。
「食べられるところは、食べないと…」
私はそう思っているだが…
私が子供の頃は、丸かじりが当たり前であった。
(どこまで食べるかは、本人の意思だ)
給食のりんごも皮付きであった。
皮にも栄養がある。
聞いた話では…
果物は、果肉と皮の境目が一番おいしいらしい。
私もそのように思う。
リンゴも梨もイチジクもブドウも…
境目が美味しいと思う。
皮をむくと、美味しい部分を捨てることにもなる。
刃物を上手に使えれば、生活の幅が広がるであろう。
だが、しかし…
そう言う事は…
母から娘へと受け継がれるものではなかろうか…
学校で教わるのは、何だか淋しい気がする。
「考え方が古い!」と言われそうだが、
人同士が寄り添うことで、波動も伝わるのである。
そこに、大切なものが存在するような…気がするのだ。
親と子も、恋人同士も…
その時には…
寄り添い、何かを共有しているのだ。
それは、母性かも知れないし、愛情かもしれない。
もし…
『リンゴはトーラス体で、万物の基本の形である…』
と伝えている先生がいたら…
私から特別に点を差し上げたいと思う。
りんごの皮むきのテスト。
これらはすべて、私個人としての考えですが…
皆さんはどう思いますか?