明慧は立ち上がると、ゆっくりと歩き始めた。
滝の側の岩に立てかけておいた杖を持ち、歩き始めた。
「滝の水はまだ冷たかろう…」
真魚が明慧の後ろに寄り添った。

「それが、そうでもないのです」
「心の中に温かい光が流れ込んできました」
「私の心は充実しています」
明慧の言葉に真魚が笑みを浮かべた。
それとなく明慧の体調を伺ったのかも知れない。
誰にでも器が存在する。
その許容量を超えることは、存在そのものに影響を及ぼす。
身体が壊れるか、心が崩壊するか…
危険を伴う行為でもあるのだ。
側にある滝守の小屋に明慧は向かった。
足下に不安はない。
その事実は、何度もこの滝に入った事を意味している。
このような小さき者が、何かを求めていたことになる。
明慧は小屋に入ると濡れた身体を拭き、着物を替えた。
全ての動きによどみがない。
明慧の心象が、別の世界を創造しているようであった。
「真魚よ、この小僧なかなかやりおるな…」
子犬の嵐もそれを認めていた。
「そのうちに杖さえ必要でなくなる…」
真魚はその未来を既に見ていた。
「佐伯様、案内いたします、上に参りましょう」
着替えの終わった明慧が真魚に言った。
滝の側に道があり、桃尾山の山頂に向かっている。
その山の中腹に明慧の師、慧鎮がいる寺がある。
明慧が言う上とは、この寺のことだ。
「お主の母は何をしておる…」
真魚が明慧に尋ねた。
道で泣いていた女。
真魚はその関わりが気になっていた。
「私に母はいません」
「物心ついたときにはこの寺にいました」
明慧が真魚に答えた。
「ほう…」
真魚が想像していたものとは全く違う。
予想外の事実が明慧の口から語られた。
「では父は?」
真魚は更に明慧に聞いた。
「父も誰だかは存じておりません」
「私の面倒は乳母がしておりました」
「記憶は薄いですが、幼き頃から不自由はしておりませぬ…」
「それは、裕福であったと言うことでしょう」
明慧はまるで他人事のように、自らの出自を告げた。
どちらにせよ、何か理由がある。
明慧が物心つかぬ間に出家したのは、そういうことだろう。
「私は生まれてはいけなかったのでしょうか?」
「目が不自由なのも…そういうことなのでしょうか?」
自らの存在を否定する。
それは、神に対する冒涜である。
それが分かっていながら、明慧は苦しんでいた。
明慧の波動が、真魚と嵐に伝わる。
「むしろ…逆だ…」
真魚が明慧に言った。
「逆?」
明慧には真魚の言葉の意味が理解出来なかった。
「それは、どういうことでしょうか?」
明慧が真魚の答えを待っていた。
「そこまでして、生まれる必要があったのだ…」
真魚がそう言って微笑んだ。
明慧には真魚の微笑みは見えてはいない。
「ああ…」
その言葉で、明慧が立ち止まった。
その心が拓いていく。
明慧の瞳から、一筋の光が落ちた。
「お主の両親は道を外したのかも知れぬ…」
「だが、母はそれを受け入れたのだ…」
「誰のためかは、考えれば分かるであろう…」
明慧は立ち止まって泣いていた。
「そんな…ことって…」
真魚の言葉が心に染みこんでくる。
溢れ出した涙は止まることはなかった。
初めて母の悲しみを知った。
自らの苦しみよりも深い、母の愛を知った。
「今日は…何という日でございましょう…」
明慧は苦しそうに泣いた。
そして、晴れていく心に、問いかけていた。

続く…
-この物語はフィクションであり、史実とは異なります。
実在の人物・団体とは一切関係ありません-