観音菩薩( アヴァローキテーシュヴァラ・ボーディサットヴァ)
梵名のアヴァローキテーシュヴァラとは、
ava(遍く)+lokita(見る、見た)+īśvara(自在者)
という語の合成語との説が現在では優勢である。
玄奘三蔵による訳「観自在菩薩」はそれを採用していることになる。
ウイキペディアにはこのように書かれていた。
般若心経はこの観音菩薩から始まる。
日本ではかなり有名な仏である。
私は、どういうわけか観音菩薩と言うよりも、
梵名のアヴァローキテーシュヴァラの響が好きだ。
理由は無いが、この名は心が震えるような感じがする。
この響の中に、何かの記憶が閉じ込められているのかも知れない。
思い当たる事というのは以前、金峰山寺の観音菩薩の前…
椅子に座って休んでいたときに、ちょっとした出会いがあったぐらいだ。
ふと気を抜いた瞬間に…それは訪れた。
私自身の感覚からすれば…
仏に性別は無いのでは?と観じている。
仏は理である。
男と女のようにどちらかに偏る必要は無いのでは?と思う。
実際に、神や仏は非常に中性的である。
どちらか分からない。
アヴァローキテーシュヴァラに至っては…
遍く、見る、自在者なのだ。
偏りがある方が、自らの存在を曲げるような気がする。
日本の神話や、ギリシャ神話の神はかなり人間臭い。
ここには、何かの意図があるような気がする。
アヴァローキテーシュヴァラなどの仏には、それがない。
その理由として…
ただ、あるべき存在を人が観じただけではないか?と私は捉えている。
もともと…神や仏に形は無い。
観た者の心に像を投影する。
だから、同じ仏でも見る者によって違うはずである。
と、言う事は…
観る者によって男にも女にもなると言う事だ。
中性的であるが故に、観た者によって変わる。
人の世では…
目の前にいる人は、男か女のどちらかの筈だ。
人の概念の中には男か女しか無い。
この固定概念が、そう見せているだけでは無いかと思っている。
男である必要もないし、女である必要も無い。
私自身は、在るべき存在に性別は必要ないと思う。