風はまだ冷たかった。
遠くに見える山には雪が残っている。
淡い緑の草が、道の廻りに彩りを添えている。
麓の里には春が訪れていた。
こーん
こーん
木樵が仕事をしている。
その音が風に流されてくる。
昼までにはまだ時間がある。
その音が鳴り止むことはないだろう。

村に続く道を、一人の男が歩いていた。
直垂。
その時代にそう呼ばれた着物を、その男は着ていた。
他に目立った特徴が二つあった。
その男は黒い棒を肩に担いでいた。
見ているだけで魂までも吸い込まれる。
そんな妖しい黒い色をしていた。
他に、もう一つ特徴があった。
腰に瓢箪をぶら下げていた。
朱色の瓢箪であった。
丹念に漆を施したような艶があった。
その男の名は佐伯真魚。
後に空海と呼ばれる男である。
向いの山には木が残っていなかった。
「おい、真魚よ!」
「お主は、こんな所に何をしに来たのだ」
声がする。
その男の足下からその声は聞こえた。
足下に纏わり付くように、子犬が歩いていた。
銀色の子犬。
それは、ただの犬では無い。
その言葉は,その子犬が喋っていた。
「見ておきたかっただけだ…」
真魚の答えは素っ気ない。
「それだけで、わざわざこんな所まで来たのか…」
子犬は呆れていた。
すると…
一人の老婆が立っていた。
向いの山を見ていた。
「ほう…」
真魚がそう言って笑みを浮かべた。
「精霊が泣いておる…」
その老婆がつぶやいた。
そして、村に向かって歩いて行った。
真魚が立ち止まって、その姿を見ていた。
その老婆に何かを感じていた。

「精霊などいないではないか…」
子犬はその事実に気づいていた。
「そう言う意味では無いぞ…嵐」
真魚はそう言って子犬を見た。
子犬の名は嵐と言うらしい。
「では、どういう意味なのだ!」
嵐にとってはどうでもいいことではある。
だが、気になって聞き返した。
「あそこに行けば分かるのではないか…」
向かいの山。
ほとんど木は残っていない。
真魚はその山を見て言った。
「お主、また良からぬ事を考えておろう…」
嵐にはいやな予感がしていた。
嵐が気になった事。
真魚が笑みを浮かべていた。
ただそれだけの事だ。
だが、その笑みこそが、始まりの証なのだ。
それは、嵐が一番よく分かっていた。
村に行く道を逸れて、真魚達は山に向かった。
こーん
こーん
木樵の作業は続いている。
四半刻ほど歩いたであろうか…
沢山の木が積まれていた。
何人かの男達が、切り倒した木の枝を切っていた。
一人の男が切り倒した木に座り、休んでいた。
目が鋭く眉は細い。
顔は細面で痩せて見えた。
だが、その着物の下に、しなやかな筋肉があることは直ぐに分かる。
「お主は仕事をしないのか?」
真魚がその男に声をかけた。
「役人には見えぬな…旅の者か…」
男は真魚を睨み付けた。
「まあ、そんな所だ…」
真魚は適当に言葉を濁した。
「これぐらいの作業は、あの男に任せておけばいい…」
男はそう言って、竹筒の中のものを飲んだ。
「酒か…」
その臭いが漂っている。
真魚は気にせず、男が言う者を捜した。
それは、直ぐに見つかった。
一際輝く大きな身体。
「ほう…」
その時…
わおぉぉぉぉぉ~
何かの獣が鳴いた。
嵐が真魚を見た。
真魚が笑みを浮かべていた。
大きな身体の男が作業を止めた。
その叫び声を聞いていた。
嵐が真魚を見た理由。
真魚が笑みを浮かべている理由。
大きな男が聞いている理由。
その答えは同じであった。
細身の男だけは、気にしている様子もなかった。

続く…
-この物語はフィクションであり、史実とは異なります。
実在の人物・団体とは一切関係ありません-