三輪山に一人で登った時のことである。
下山の際、足を踏み外しそうになった。
怖いと感じた。
それで思い出した。
有名な登山家の話だ。
山は下山のときに事故が多い
「なぜ、あなたはエベレストに登りたいのか?」
と言う質問に
「そこにエベレストがあるから」
と答えた登山家ジョージ・マロリーも
下山中に命を落としている。
ふと感じた事があった。
人生を山登りをだと考えたとき
「生と死」はどちらだろう。
やるべき事を成し終えて人は死ぬ。
達成感から考えると頂上が「死」、
登山口が「生」であろうか?
そうなると下山が生まれる瞬間(前)と言うことになる。
輪廻の輪の下り部分ということなのだろうか?
神との契約を終え、一度リセットされる。
何も覚えていない自分…
その時点では誰でもない自分が存在する事になる。
(覚えてはいるが忘れている自分が存在する)
その瞬間が一番恐ろしいのではないかと思ったのだ。
だから、人は泣きながら生まれるのではないのか?
笑いながら生まれる赤ん坊はいない。
「怖いから泣きながら生まれるのだ!」
と言うことが思考の中に湧き出たのだ。
呼吸をしないといけないので、
本能的にそうなっているようである。
だが、別の方法でもいいのではないのか?
と考えてしまう。(あくびとか…)
自然界であれだけ泣けば、敵に見つかってしまう。
命を落とすリスクはどう考えても高い。
では、人が死ぬときはどうだろう。
人生はいろいろある。
泣きながら死ぬ人もいる。
笑いながら死ぬ人も存在する。
目的を果たせたのか、そうでなかったのか…
そこには納得出来る要素が揃っている。
それで最後にこの童謡である。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
行きはよいよい、帰りはこわい…
こわいながらも通りゃんせって…
かごめの唄と言い、何か童謡って意味深ですな…。
私自身の勝手な妄想かも知れませんが…