空の宇珠 海の渦 第五話 その三十三 | 空の宇珠 海の渦 

空の宇珠 海の渦 

-そらのうず うみのうず-
空海の小説と宇宙のお話



村の動きも慌ただしくなってきた。
 
戦に備えて村の者総出で支度をする。
 
紫音は弟たちと一緒に、畑で作物を摘んでいた。
 
この村の畑は皆のものであった。
 
皆で働きそれを分配する。
 
誰のものでもない。
 
働ける者は皆働く。
 
作物の手入れは力のない子供や女達の仕事だ。
 
狩りや木を切る危険な仕事は男達が担った。
 
だが、決まりがあるわけではない。
 
出来ることは男女問わず何でもする。
 
そうやって皆で生きて行くのである。
 
そうすれば戦で親を失った者も生きていける。
 
与える事はあっても、奪い取ることはないのである。
 

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太陽の光が紫音の体温を上げる。
 
額から汗が流れ落ちる。
 
それが大地に染み込んでいく。
 
紫音はそのことには気づいてはいない。
 
紫音の命のかけらが大地の命となる。
 
それが作物になり紫音を生かす。
 
紫音は感じ始めていた。
 
この大地の輝きを。
 
嵐が紫音に見せた大地が紫音を変えた。
 

「自分も一つ、大地も一つなんだ!」
 

この世に同じものは存在しない。
 

唯一無二だ。
 

紫音はその事に気づいた。
 
全てのものが一つしか無い。
 
その事実が紫音を変えた。
 
一つしか無い。
 
だから愛おしいと感じた。
 
この一瞬でさえ二度とこない。
 
その思いは紫音の輝きの一部になった。
 
紫音の心は感動の波動を放ち続けている。
 
それは魂の衣を伝わり、神に届く。 
 
生きることの意味がそこに存在している。



「母礼?」
 
紫音が気づいた。

影はまだ小さい。

馬に乗ったまま近づいてくる。
 
急いでいる様子はない。
 
紫音は作業を止めて走って行った。
 

「姉ちゃん!どこいくの?」
 
弟の禮音(れおん)は気づいていない。
 
「最近の姉ちゃんはわかんねえ」
 
禮音は紫音の行動に呆れていた。


「紫音か?」
 
誰かが走ってくる。
 
側に小川が流れている。
 
それほど広くはないその道を走って来る。
 
母礼はそれが紫音であることに気がついた。 


はぁはぁはぁ…

紫音は息を切らしている。
 
「何もそんなに走らなくても良かろう?」

「身体が勝手に走り出したのよ!」

母礼の問いかけは紫音には無駄であった。

「乗るか?」

「うん!」

母礼は少し前屈みになり右手を差し出した。

紫音はその手をにぎり馬によじ登った。

母礼の前に紫音が乗る。


「俺に何か用なのか?」

「用がなければ来てはだめなの?」

紫音はわざと威圧的に言った。


「そういうわけではないが…」

「もうすぐ戦でしょ…」

紫音の声が小さくなった。


「ああ…」

母礼はあることを思いだした。


「何か一つでもあれば…」


紫音はそう言った。

「俺は必ず帰ってくる!」

母礼はそう自分に言い聞かせた。


「ねえ…」

「なんだ」

「母礼は怖く無いの?」

「何がだ?」

「死ぬ事よ…」

紫音は心配している。


「人はいつか死ぬ、俺は出来ることをするだけだ!」

母礼にはそう言うしかなかった。


「私はいやよ!誰も死んで欲しくない!」

紫音の瞳から涙が溢れた。

紫音の背中が揺れている。

その涙は母礼には見えなかった。


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「この戦いには蝦夷の未来がかかっている!」

母礼のその言葉に紫音の心が揺らぐ。


「どういうこと?」

蝦夷の未来。

その言葉が紫音の中で輝きを放つ。


「真魚がそう言ったのだ…」

「真魚が?」

「そうだ、蝦夷の未来は俺と阿弖流為にかかっていると…」

「真魚が…」


どういう意味なのか紫音には理解出来なかった。

だが、蝦夷の未来を真魚が感じているのなら…。

出会った時に感じた感覚は、間違ってはいなかったのだ。


「真魚が蝦夷に未来があると言ったの?」

紫音はその事実を確かめたかった。

「あるとは言っていない、かかっているとだけ言ったのだ」

母礼の答えは紫音を混乱させた。


「今度、真魚に確かめてみる!」

紫音は覚悟を決めた。


「紫音、真魚を信じているのか?」


母礼は紫音の心を確かめたかった。


「ええ、信じているわ!」


紫音の言葉に揺るぎはなかった。


「俺は紫音のその心をを信じている」


母礼は紫音にそう誓った。


続く…