空の宇珠 海の渦 第五話 その二十九 | 空の宇珠 海の渦 

空の宇珠 海の渦 

-そらのうず うみのうず-
空海の小説と宇宙のお話




田村麻呂はようやく蝦夷の地にたどり着こうとしていた。
 
長い道のりであった。
 
望まぬ心が更に追い打ちをかけていた。  

目の前に広がる平野が決意を求めている。
 

「なにっ!」
 

一瞬考えがよぎる。
 

だが、その考えを田村麻呂は打ち消した。
 
「俺も男か…」
 

田村麻呂は自虐的にそう言った。
 

『広がる世界を手に入れたい。』
 

望まぬ心であっても一瞬そう考えた。



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武人であれば、この景色を見て誰もがそう思うだろう。
 
蝦夷の地はそれだけ素晴らしい所だ。
 
生命があふれ生きる力を育んでいる。
 
だが忘れてはいけない。
 

倭が奪って良いという事ではない。


「俺ですら思うのだ…」
 

『帝が思わぬはずがない』
 
田村麻呂はその言葉を飲み込んだ。
 




真魚は丘の上にいた。

草の上に座り、考え事をしていた。

子犬の嵐が横に座っている。 

目の前には蝦夷の大地が見えていた。

風が抜けていった。
 
青い空が赤く染ろうとしていた。
 


「戦場は…あの当たりか…」
 
真魚はそうつぶやいた。
 

「なぁ、真魚よ…」
 
嵐が真魚に何かを言おうとしている。
 

「何だ…」
 

「俺は思うのだが、この戦いを終わらす方法が無いものかなぁ?」

嵐が無い知恵を絞り出していた。
 

「哀しい未来を摘み取る必要は無いと思うのだが…」
 
嵐は葉月の笑顔を思い出していた。
 
「どんな人生であっても、人はやり直せるのだぞ」
 
嵐の言葉とは思えなかった。
 

「帝に聞かせてやれ…」 


真魚は笑ってそう言った。
 

くくくくっ
 

何か音が聞こえる。
 
苦しんでいるような…。


「いるんだろ!」
 
真魚がそう言った。
 

がははははははっ~
 

苦しみが溢れ出した。
 
そうではない。
 
笑いを堪えていたのだ。
 

ひゃひゃひゃ~っ
 

前鬼と後鬼であった。
 

「嵐がそんなことを言うようになったと思うと…」
 
前鬼が腹を抱えて笑っている。
 

「変われば変わるものだの~」
 
後鬼は笑いながらも、嵐の変化を感心していた。
 

「う、うるさいわ~今頃のこのこやってきおって!!」
 
嵐は怒っていた。
 

「馬鹿にしたわけではないぞ!」
 
「感心しているのだ!」
 
前鬼と後鬼は本当にそう思っていた。
 
 
「奴はもう着いたのか?」
 
真魚の言葉が場の雰囲気を変えた。

「先ほど多賀の城に入った…」

前鬼が答える。
 

「全てが揃うまでにはしばらくかかる…」 

「それまで動くことはあるまい…」
 
真魚はそう言うと立ち上がった。
 

「どこへ行く?」
 
「阿弖流為と母礼には知らせておかぬとな…」
 
嵐にそう答えながら、真魚は歩き出していた。  




夕日が世界を赤く染めている。

時と共に少しずつ彩りを変えていく。

変わらないものなど無い。

蝦夷の未来も同じだ。

夕日を見ながら阿弖流為はそう考えていた。
 

― 田村麻呂に蝦夷の未来を預ける。 ―
 

それが本当に蝦夷を救う道なのか。
 
前回の戦いでも死傷者はたくさん出た。
 
それでも退けることで精一杯であった。
 
勝ったという実感はない。
 
倭にとってそれが敗北でも、蝦夷にとっての勝利ではない。
 
圧倒的な数の前に、じりじりと退いているのは蝦夷の方であった。
 
この地を捨てて生き延びたとしても、倭はまた領地を広げてくるに違いない。
 
嵐が見せてくれた世界が、阿弖流為の心を揺さぶっていた。
 

『俺の首などくれてやる。』
 

『だが、蝦夷の未来は渡さない。』
 

蝦夷に未来があるのなら、阿弖流為は命すら差し出すつもりだ。
 
だが、命を差し出したところで、倭がこれ以上蝦夷の地を奪わないという保証はない。
 

「蝦夷は滅びる運命なのか…」
 

阿弖流為はそうつぶやいた。
 

「蝦夷は生きねばならない!」
 

その声は阿弖流為の後ろから聞こえた。
 

「真魚…」
 

真魚が立っていた。
 

「蝦夷の生き方の中心は心だ」
 

「仲間を助け、弱者を救い、協力しながら生きている」
 
「大地に生かされている事を知り、その感謝を忘れない」
 
「生命の輝きと共に生きている」
 

そう言うと真魚は懐から何かを出し、阿弖流為に投げた。
 
阿弖流為は片手で受け取った。


重さが手に伝わる。
 

「こ、これは…」
 

阿弖流為は驚いていた。
 

「それで倭を釣る!」
 

真魚はそう言った。


阿弖流為は手の中にあるそれを見た。
 

「お主ら蝦夷には必要ないものだ…」


「俺を信じろ!」
 

真魚のその言葉で、阿弖流為は全てを理解した。


握りしめたその手は阿弖流為の決意そのものであった。



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続く…