田村麻呂はようやく蝦夷の地にたどり着こうとしていた。
長い道のりであった。
望まぬ心が更に追い打ちをかけていた。
目の前に広がる平野が決意を求めている。
「なにっ!」
一瞬考えがよぎる。
だが、その考えを田村麻呂は打ち消した。
「俺も男か…」
田村麻呂は自虐的にそう言った。
『広がる世界を手に入れたい。』
望まぬ心であっても一瞬そう考えた。

武人であれば、この景色を見て誰もがそう思うだろう。
蝦夷の地はそれだけ素晴らしい所だ。
生命があふれ生きる力を育んでいる。
だが忘れてはいけない。
倭が奪って良いという事ではない。
「俺ですら思うのだ…」
『帝が思わぬはずがない』
田村麻呂はその言葉を飲み込んだ。
真魚は丘の上にいた。
草の上に座り、考え事をしていた。
子犬の嵐が横に座っている。
目の前には蝦夷の大地が見えていた。
風が抜けていった。
青い空が赤く染ろうとしていた。
「戦場は…あの当たりか…」
真魚はそうつぶやいた。
「なぁ、真魚よ…」
嵐が真魚に何かを言おうとしている。
「何だ…」
「俺は思うのだが、この戦いを終わらす方法が無いものかなぁ?」
嵐が無い知恵を絞り出していた。
「哀しい未来を摘み取る必要は無いと思うのだが…」
嵐は葉月の笑顔を思い出していた。
「どんな人生であっても、人はやり直せるのだぞ」
嵐の言葉とは思えなかった。
「帝に聞かせてやれ…」
真魚は笑ってそう言った。
くくくくっ
何か音が聞こえる。
苦しんでいるような…。
「いるんだろ!」
真魚がそう言った。
がははははははっ~
苦しみが溢れ出した。
そうではない。
笑いを堪えていたのだ。
ひゃひゃひゃ~っ
前鬼と後鬼であった。
「嵐がそんなことを言うようになったと思うと…」
前鬼が腹を抱えて笑っている。
「変われば変わるものだの~」
後鬼は笑いながらも、嵐の変化を感心していた。
「う、うるさいわ~今頃のこのこやってきおって!!」
嵐は怒っていた。
「馬鹿にしたわけではないぞ!」
「感心しているのだ!」
前鬼と後鬼は本当にそう思っていた。
「奴はもう着いたのか?」
真魚の言葉が場の雰囲気を変えた。
「先ほど多賀の城に入った…」
前鬼が答える。
「全てが揃うまでにはしばらくかかる…」
「それまで動くことはあるまい…」
真魚はそう言うと立ち上がった。
「どこへ行く?」
「阿弖流為と母礼には知らせておかぬとな…」
嵐にそう答えながら、真魚は歩き出していた。
夕日が世界を赤く染めている。
時と共に少しずつ彩りを変えていく。
変わらないものなど無い。
蝦夷の未来も同じだ。
夕日を見ながら阿弖流為はそう考えていた。
― 田村麻呂に蝦夷の未来を預ける。 ―
それが本当に蝦夷を救う道なのか。
前回の戦いでも死傷者はたくさん出た。
それでも退けることで精一杯であった。
勝ったという実感はない。
倭にとってそれが敗北でも、蝦夷にとっての勝利ではない。
圧倒的な数の前に、じりじりと退いているのは蝦夷の方であった。
この地を捨てて生き延びたとしても、倭はまた領地を広げてくるに違いない。
嵐が見せてくれた世界が、阿弖流為の心を揺さぶっていた。
『俺の首などくれてやる。』
『だが、蝦夷の未来は渡さない。』
蝦夷に未来があるのなら、阿弖流為は命すら差し出すつもりだ。
だが、命を差し出したところで、倭がこれ以上蝦夷の地を奪わないという保証はない。
「蝦夷は滅びる運命なのか…」
阿弖流為はそうつぶやいた。
「蝦夷は生きねばならない!」
その声は阿弖流為の後ろから聞こえた。
「真魚…」
真魚が立っていた。
「蝦夷の生き方の中心は心だ」
「仲間を助け、弱者を救い、協力しながら生きている」
「大地に生かされている事を知り、その感謝を忘れない」
「生命の輝きと共に生きている」
そう言うと真魚は懐から何かを出し、阿弖流為に投げた。
阿弖流為は片手で受け取った。
重さが手に伝わる。
「こ、これは…」
阿弖流為は驚いていた。
「それで倭を釣る!」
真魚はそう言った。
阿弖流為は手の中にあるそれを見た。
「お主ら蝦夷には必要ないものだ…」
「俺を信じろ!」
真魚のその言葉で、阿弖流為は全てを理解した。
握りしめたその手は阿弖流為の決意そのものであった。

続く…