田村麻呂が全く予想もしていなかった言葉だった。
「お主、俺と会った事があるのか…」
田村麻呂は記憶をたどってみた。
「出会ったのは夏の吉野山だ」
「正確には川になるかな」
真魚は笑ってそう言った。
「まさか…あのときの坊主か、皇子といた」
「確か、佐伯…そうだ佐伯真魚と言ったな」
田村麻呂は思い出した。
「久しぶりだな」
真魚はその男が征夷大将軍である事実には気にもとめていないようだ。
「だが、なぜお主が、今、ここにいる」
田村麻呂の疑問は膨らむばかりであった。
「見たところ旅の途中か?」
「ひとつ、忠告しておきたい事がある」
真魚が田村麻呂に向き合う。

「俺に…忠告だと…」
田村麻呂は自尊心をもてあそばれているような感覚を覚えた。
「望まぬ戦はやめておいた方がいい」
真魚は笑っていた。
「な、何を…」
田村麻呂は驚いた。
心の中を全て見透かされている。
疑問などではない。
確信だった。
戦う前に負けたと思ったのはこれが初めてである。
それは、田村麻呂が優れた武人である証明でもある。
「その刀は誰にもらった」
尚も真魚は問い詰める。
「あの男ではないのか?」
あの男…真魚は一度だけ会っている。
田村麻呂と同じ時。
「お主の言うとおりこれは帝に頂いたものだ」
田村麻呂は正直に答えた。
田村麻呂の心は揺らいでいる。
信じられない。
こんな餓鬼に負けるのか?
俺の今までは一体何だったのか?
戦ってもいないのに負けを認めるのか?
全てを受け入れることが出来ない自分が存在していた。
「その刀を絶対に抜くな」
真魚は真剣に田村麻呂に言った。
「何故だ、この刀は俺を奮い立たせるものだ」
田村麻呂は真魚の言葉が納得出来ないでいる。
「一度抜いたであろう」
真魚が問うた。
田村麻呂はその言葉に縛られた。
まるで金縛りにあったようであった。
「帝の前で…本来なら帝の御前でそんな事はしない」
田村麻呂はその状況を思い返していた。
「ただ、あのときは帝が見よと…」
そして、もう一つ思い出した事があった。
「その時であろう、力が出たような気がしたのは」
真魚の問いは正しかった。
その問いの中に既に答えが存在していた。
田村麻呂は震えが止まらなかった。
田村麻呂が持つ感覚は、既に真実をつかんでいた。
「家族が京にいるのだ」
田村麻呂は真魚から視線を外した。
それは警戒心を解いたと言うことだ。
「罠だ」
真魚は言った。
「罠だと、だっ、誰の罠だというのだ」
田村麻呂は狼狽えた。
「あの男に決まっているだろ」
真魚は恐ろしい言葉を放った。
時にはその言葉は死を意味する。
「帝が…そんなことを…」
田村麻呂は受け入れられない。
その言葉が本当の事だとしても…
「俺の推測が間違っていなければの話だが…」
真魚が更に田村麻呂の詰め寄る。
「蝦夷か」
田村麻呂はその言葉を無視した。
「俺の口からは言えん」
その言葉は肯定と同じであった。
「それだけ分かればいい」
真魚はそう言うと田村麻呂の前から消えた。
「俺を出し抜くとは…」
田村麻呂は狐につままれたような気分であった。
「あの小さな坊主がな…」
この男…
佐伯真魚。
この世でただ一人。
恐怖を感じた男。
川の流れを見つめながら、真魚の言葉をかみしめていた。

続く…