空の宇珠 海の渦 第五話 その一 | 空の宇珠 海の渦 

空の宇珠 海の渦 

-そらのうず うみのうず-
空海の小説と宇宙のお話



5_biwako_530.jpg




砂浜を歩いていた。
 
波の音と砂を踏む足音が交互に聞こえてくる。
 
頬に触れる午後の風が心地良かった。
 
しかし、その風に潮の香りは混じっていない。
 
近江の国。
 
倭の国で一番大きな湖。
 
近淡海(ちかつあわうみ)

現在では琵琶湖と呼ばれている。
 
水があるところに人は集まる。
 
近江の国も決して例外ではない。
 
たくさんの集落を通り過ぎた。
 
そこには貧しいながらも生き生きとした生活が存在していた。
 
自然の恵みは人の心も豊かにする。
 
いつしか人は自然そのものを神だと崇め奉ってきた。
 
それは必然の結果だ。
 
この恵み無くしてはこの時代、人は生きてはいけなかったからだ。
 

かなり北の方まで歩いてきた。
 
右手の奥に山が迫って来ている。
 
その山を越えれば美濃に行ける。
 
振り返ると湖の向こうには比叡の山脈が見えていた。
 
奥は平野になっていて湖沿いにたくさんの住居が建ち並んでいる。
 
しかし、当然ながら貴族が住むような立派なものは一つとして見当たらなかった。
 

「おい、真魚!」
 
男が歩いていた。
 
その声はその男の足下から聞こえてくる。
 
よく見ると銀色の子犬が歩いていた。
 
「おい、真魚!聞いておるのか!」
 
子犬が喋った。
 
「何だ。」

その男の答えはいつも素っ気ない。
 
「お主も気づいておるじゃろ」
 
子犬が真魚と呼ばれるその男に話しかけた。
 
「だからなんだ」
 
その男は平然と前に向かって歩いている。
 
肩に棒を担いでいる。
 
漆黒。

闇そのものの色だ。

見ているだけで、吸い込まれていきそうな妖しさを持っていた。
 
艶があるが傷一つついていない。
 
腰には赤い瓢箪がぶら下がっていた。

「この気配は何だ?」
 
何か異変を感じ取っていた。

 
子犬はその異変の答えが知りたいらしい

「じきに分かる、大した事ではない」

真魚はそう答えた。

「俺は今知りたいのじゃ!」

子犬は異変を感じ取りながら落ち着いている真魚にいらだっている。

「ちょっと飛んで見てくればいい」

真魚という男はそう言うが、子犬に飛べと言うのも酷な話である。
 

「そんなことをすれば腹が空くではないか!」
 
飛べないのではなく腹が空く。
 
子犬が真剣に言っている。
 
問題を解決するよりもお腹が空く方がこの子犬には問題らしい。
 

「だったら、しばらく我慢しろ」
 
真魚はそう答えた。
 
「この波動を感じながら、お主はよく落ち着いていられるな」
 
子犬が不満そうに言った。
 


しばらく歩くと砂浜の側を歩いている者達が見えた。
 
「こ、これか!」
 
子犬が思わず叫んだ。
 
その数数万、これから戦に向かう者達であった。
 
「言ったであろう」

真魚が子犬に向かって言った。
 
人にはそれぞれにエネルギーの波動が存在する。
 
子犬は数万人のエネルギー波動を一つのエネルギーの混沌(カオス)の塊と感じた様だった。
 
(らん)、お前が気にするほどの相手ではない」
 
答え合わせが完了した。
 
「確かにそうだな…」

しかし、嵐と呼ばれる子犬は納得出来ない様子だ。
 
「だが、少し…気になるな…」
 
真魚が言葉を付け加えた。 
 
「真魚もそう思うか!」
 
嵐が伝えたかった事実を真魚も感じ取ってはいたようだ。
 
「前鬼!後鬼!」
 
真魚が呼ぶ。
 
「うひゃひゃひゃ~、(ばあ)さん今日は儂の勝ちじゃ!」
 
離れた木の上から声がした。
 
赤鬼の男であった。
 
がっしりとした体格でひげ面。
 
肩に斧を担いでいた。
 
媼さんと呼ばれていたのは青鬼である。
 
さすがに皺は隠せぬが、細面で若い頃はかなりの美人であったことが窺える。
 
二人は笈を背負い修験者のような格好をしていた。
 
「たまには負けてやらんとかわいそうじゃからな!」
 
青鬼の(ばあ)さんは負け惜しみを言っている。

二人は難なく木の上から飛び降りた。
 
「真魚、いい加減奴らに言っておかんといつまでもあの調子だぞ」
 
子犬の嵐が真魚に釘を刺した。
 
「ちょっと頼みがある」
 
真魚は笑いながら、二人にそう告げる。
 
嵐の忠告は聞いていたようである。
 
「あの者達ですな」
 
青鬼の後鬼が答える。
 
「前鬼、奴らはどこに向かうと思う?」
 
真魚が前鬼に聞いた。
 
前鬼は知識の灯りを持っている。
 
その古からの記憶は答えを導く鍵になる。
 
「ここからじゃとこのまま北に向かうのは間違いない」
 
前鬼が答える。
 
「何がある」
 
さらに真魚は尋ねた。
 
「このまま行くと陸奥国あたり…果ては蝦夷(えみし)と言うことになりましょうか?」


5_zennkigoki_530.jpg




「それよりもあの男が気になりまする」

前鬼が一人の男を指さした。
 
馬に乗った男。
 
この戦を指揮している男のようである。
 
だが、距離が遠すぎて真魚には見えなかった。
 
見えないが真魚は感じていた。
 
気になるそのものは前鬼と同じであった。
 
「俺も、なんかおかしいと思うのじゃ!」
 
嵐が話に割って入ってきた。
 
「ほんに、これから戦に行くのになぁ…」
 
後鬼も異変を感じ取っていた。
 
「奴らより先に行き、確かめてきてくれ」

「ついでにいつものも頼む」
 
真魚は前鬼と後鬼にそう言った。
 
「これは、また面白いことか起こりそうじゃわ」
 
そう言って返事もせずに前鬼と後鬼は跳んで消えた。
 
「あいつらも暇なのか忙しいのかわからんのう」
 
「ところで真魚、いつものとは何のことじゃ?」
 
「また俺に内緒で何か企んでおるのか?」 

嵐は不満そうに二人の姿を見送りながら真魚に言った。 
 
「お前が知ってどうする?」

真魚が嵐に聞く。
 
「それもそうじゃなぁ」
 
「知ったところで、またいつものように紛らわしくなるだけじゃな」
 
「それで、俺たちはどうするのじゃ」
 
あきらめた嵐が自分の仕事を真魚に確認する。
 
「奴らの後を追いかける」
 
真魚には何か考えがあるらしい。
 
嵐はその事に気づいていた。
 
「その数数万、俺たちの方が速いぞ」
 
嵐は少し真魚をからかってみた。
 
「その方が良い時もある」
 
真魚の視線は見えない男に向けられていた。


続く…