はじめまして
私は高校2年生の女の子です。好きな物はイラストと小説を書くこと、歌を聴くことです。夢は小説家とイラストレーターです。
夢を持っているということは今まで恵まれた環境に居たのだろうとよく思われますが私の小中学校の日々は思い出すだけで涙が出てきます。今日はそんな私の小学校の過去をお話します
小学校一年生の頃は「◯ね」や「消えろ」などテンプレな悪口を同級生、先輩から言われ
二年生からは支援の先生がついてくれたもののよほど苦しかったのか断片的しか覚えていません
そしてあれよあれよと三年生になり、私は普通学級から支援学級に入りましたが同い年の男の子と二年生の男の子も居て、その男の子二人の面倒を見させられたりよく逃走してたので一緒に捜索や教室に一人で待機が普通でした。私は今高校生ですが一人になると孤独と不安が押し寄せ体調が悪くなり、今思うとこの過去が原因なんだろうなと思います
四年生は何があったのかわかりません。思い出すのは先生の怒鳴り声と原爆の被害者の悲鳴。助かった被害者の黒く変形した足。その先生は原爆に関して熱心で普通の授業を四年生の頃は受けておらず原爆の話ばかりを毎日毎日授業のかわりに聞かされていました。私は今思うとどんなに苦しくても怖くても怒鳴られても期待をしていたのだと思います。三年生の頃は相手にもしてくれず一人ぼっちだったため熱心に話を聞けば振り向いてくれると思っていました。しかし原爆の話、待てど待てど来ない先生を何時間も大人しく待っていていざ来れば
「なんで、職員室に来て居ますって言わなかったんだ」
と教室のドアを開けたままで怒られ、おそらく別教室にも響いていたでしょう。私は職員室はあまり行っては行けないと思っていたので、行きませんでしたが、行っていいのだなと、初めて理解し、その時はただ謝るくらいしかできませんでした。その日、先生は一日不機嫌でした。どうしてここでおかしいと思わなかったのか、不思議でたまりません。そんな毎日が続いたある日ついに精神科の先生から
ドクターストップがかかりました
私は意味がわかりませんでした。普通に過ごしていたのに周りから見たら普通じゃない。普通に学校に行っていたのに突然行けなくなり、日々が過ぎていく。学校に行くことが存在証明だとこの頃は思っていたので
「生きている意味がない」
「死んだほうがいい」
と思って毎日泣いていました。
しかし母や兄のおかげでなんとか日々を過ごせ三学期に差し掛かったとき、穴埋めとして居たその先生は学校を去り、女性の先生に代わりました。私もドクターストップの期限が終わったので私の事を話したうえで行ってみるとすごく優しく、張り詰めていた気持ちが和らいだ感覚がしました
「ずっとこの先生がいいな」と思っていましたが転勤でよその学校に行ってしまいました
五年生はなんとあの、四年生のそいつが帰ってきて私はまた深い絶望に落とされました
そして案の定トラブルが起き、
「本クラスでの運動会の練習は難しい」と母が先生に伝えたとき、その先生は・・・・
「では、本番での運動会は出ないでください」
・・・・ハァ
私は皆と混ざるのが苦手だから支援学級にいるんだよズルしたくて居るわけじゃねぇんだよ
と
母経由で聞かされ内心は怒りで煮えたぎっていました。同然母も同じで結局運動会当日は祖母の家に避難していました。(私の家は学校から近いため運動会の音は丸聞こえです)
それが問題で私の担任なんてできるはずもなく、私は別の支援学級で五年生を過ごしました。五年生の頃の先生は羊のような天使のような穏やかな先生でトゲトゲしていた私はあっという間に心を開きました
六年生の時そいつは転勤になり、女性の先生に代わり、五年の先生はサポートで居てくれました五、六年は今までが嘘のように楽しく、一人になりそうな時は大好きな図書室に行って時間を過ごしたり別の空いている先生が来るなどたくさん対策してくれて、泣くことはあまり少なくなりました
しかしその生活も長くは続きませんでした。
それはまた次の話で
読んでくださりありがとうございました