私はある時から、人が「私はこういう人間です」というのをそのまま信じるようにすることにした。

「私は静かな人間です」

「私は優柔不断な性格です」

「私は真面目な性格です」

もちろん、始めからかなり饒舌なのに「人見知りなほうで・・・」などと語られると、少し「?」と違和感を覚えるけれど、本人がそういうのだから仕方がない、何か人見知りなものを内在させているのだと基本的には肯定し、注意深くその内容を観察するようにしている。

こういったこと態度をしていると、人が「静か」だとか「人見知り」だとか捉えている感覚には、それぞれにわずかであっても差異があるのだなぁ、と感じてしまう。

それを自分なりに分析することで、その人の考えや価値観の形成にたどってきた道を知ることが出来るのは、人と出逢う楽しみのひとつである。

人が孤独を感じる時、それは紛れもなく、その直前には周囲に人が居たことから来る事実である。

もし外国がないのなら、自分の国がどうのなどと感じることが無いように、周囲に人が居た時の状態と独りで居る状態とのギャップに悩むのである。

いずれにせよ、誰かと居る、ということより、一人になる、ということのほうが人生の中で確率的には高いのだから(くだらないけれど、風呂や通勤しているときだって大概は一人だから)、共に居る誰かを探すというのも、もちろん手ではあるけれど、すこしは《孤独》に耐性を持てた方が世の中生きやすいというものである。

賢さを装うことは、賢くないことより悲劇的な状態である。

「無知の知」ではないが(そこにあるささやかな傲慢さはさておき)、「知らないのでご教授いただきたい」という姿勢のほうが周囲にとってよっぽど爽やかである。

さらに根本的な問題として、賢いのだと装うことによって、その人物は本当に賢くなる機会をすっかり逃してしまうのだ。

そのような態度は周囲にとって見ていて辛い。

自身のプライドをかけて独り努力する姿勢と、見せ掛けだけで賢そうなのだと周りにしらしめようとする意図は、傍目からみても、まったく違うものである。