やしの木こんにちはやしの木

最近、モソモソいろんなことに思いを巡らせ考え天音いています。

今日もまた、先日ご紹介した「はじめての哲学的思考」という本から、考えたこと口笛


この本の中で、
「『問い方のマジック』、それはいわゆる二項対立的な問いのことだ。」と書かれていました。

つまり、物事を問うときや、1つの議題について議論する際に、そもそも、その問い方を間違えていないか?ということです。ここで例が挙げられていたのは、「1万粒の砂は砂山か、否か?」
アリにとったら、これは砂山だろうし、私たち人間からしたら、ただの砂の塊という、見る角度から、その価値が大きく変わってしまう。だから、yes or noや「あれか、これか」で答えられるような問いの立て方は、方向性が違うのではないか?!と問いただしてみる姿勢が大事ですよということ。

人生の中で生じる問いも同じこと。教育は子どもたちにとって大切なのか?それとも社会のために大切なのか?

このように、二項対立的な質問の立て方をすることで、私たちは、子どもか、社会かの二択選択を迫られてしまう。そしてその二択から答えを導き出そうとしてしまう。

そんなことを考えていたら、前政権は、上手いこと、この二項対立的な問いの立て方を使っていたなーと思いました。経済対策かコロナか。環境か鉱山か。一歩止まって考えれば、「あれも、これも」の思考で良いんじゃないかいのぉ?!と思うのだが。

しかし、これも人間の弱みに上手く漬け込んでなぁ、とある意味関心してしまう。
人間は曖昧模糊とした状況が非常に苦手です。常に答えが出ないものに、答えを導き出そうとする。
なぜかって?それは答えがみえることで安心できるから。不快感を取り除いてくれるから。

こういう人間の傾向が、科学を発展さえた所以だと思うのです。科学は私たちの疑問を解明してくれた歴史があります。なぜリンゴが落ちるのか?いまは重力があるからと答えが出ます。これは科学から受けた恩恵で、問いが科学の発展を推しすすめた。

もっと言えば、宗教も私たちの問いに答えをくれるものです。「なぜ人間が存在するのか」という問いに、神が出てくる物語で答えを出してくれる。神が創造してくれたんだよと。

だが、最近、特に諸外国では、この科学と宗教の思想の違いで、混乱を招いているようにも感じます。
日本は仏教と神道を歴史的に操作して国民をまとめてきたので、なんか…混ざりっ気たっぷりで、科学の入る余地も大いにあった(苦笑)。しかも仏教は神を信じてないから、神教と融合できた。でも諸外国は大変!

話が主題から逸れましたが、二項対立的思考で、「あれか、これか」とだけ問われ続けたら、その罠にハマったら、建設的な了解可能な共通認識や合意にたどり着くことが難しくなってしまう。

だから、この二項的思考…とても怖い、と私は思います。良いか悪いか、黒か白か、善か悪か…
でも答えを出してくれるので、安心できるし、不安を軽減してくれる。だからそこに縋りたくなってしまうのでは?と思うのです。宗教しかり、科学然りです。先程科学のことを褒めましたが、私はその弊害もあると思います。

先日、医師である知人が、以下の記事を読んで、医師のevidenced based modelや患者教育について言及していました。私の意見では、結局、医師も一般市民も、科学に絶対性を求めてしまっていまいか?と思いのです。例えば、生命余後告知の際に医師はEBMの統計的数値に頼り、患者は「先のことはわかりません」という医師の回答に疑念を抱く。

でも科学に絶対性は求められないのです。コロナのワクチンでアレルギー反応が出るかどうか、副作用で死ぬかどうか、なんて誰も答えられないはずです。EBMからの情報は統計なので参考までにする。そういう前提に立たないといけないんじゃないかなぁと思います。副作用反応が自分に出るかどうかは、よほどの要因(アレルギー体質など)が作用しない限り、50-50だということを忘れてはいけないと思います。

止めどもなく書きましたが、何かを問われた時に、二項対立的な質問かどうか、答えを出す前に一歩止まって、自分に問いみると良いかもしれません。