連日報道されている、秋田の幼児殺害事件。
畠山容疑者が、やっと自供したと思ったら、今度は計画的殺人じゃないかとマスコミは大騒ぎ。
ふつう、着物の腰紐が一般家庭にさがっているか?
とか
いつも閉めてあるカーテンがその日に限ってなぜ開いていたか?
とか
事故じゃなければお金がおりる
とか
その他書きたくないようないろんな事情をぜんぶ出してならべて、
どうしてもなんらかの理由を拵えて、彼女をすごく悪い女にしたてあげたいらしい。
マスコミのやりたいことは、事実はいったいどうだったのか、ではなく、ただ疑わしきはより疑わしく、哀しきはより哀しく、悲惨さはより悲惨さをふくんで、事件は三十倍くらい事件らしいものとして語られることが大事で、それ以外でもそれ以下でもないことがよくわかり、であるからして、そういうものをいちいち見たいとも思わなくなって久しいのだが、ときどき、あれは誰の身にも降りかかりうることかもしれぬよの、と、背筋が寒くなる思いである。
そう、いったい誰が正義で、誰が悪なのか。
ほんとうはそれを判断するのは彼らではないことだけは、たしかである。