私の娘は縁を切って出て行った。
そんな娘の子供の頃の事を、
時々振り返るようになった。
私は23歳で娘を産んだ。
当時は携帯電話が今ほど普及していなかった。
何かの情報を得る事が、
簡単ではなかった。
娘は非常に育てにくい子で、
当時もしスマホがあって、
今ほど簡単に情報が手に入っていたら、
もう少し娘は生きやすかったかもしれないと思っている。
親子問題云々の前に、
娘の気質への理解が、
大変に難しかったように思う。
そのせいでお互いが疲弊し、
疲れていた。
昭和の叩き上げ家庭で育った私には、
娘の気質が理解出来ず、
大人になって困らないようにと、
娘の為にと努力した事が、
割と無意味でお互いが疲弊する結果を招くだけだったと、後に気づいた。
娘は手のひらに強い感覚過敏があり、
水に濡れるのを極端に嫌がった。
運動も非常に苦手で、
走れば遅く、ボールを持てば落とし、
泳げば泳ぎ方がおかしいと笑われ、
リレーでは同じグループになりたくないと、
忌み嫌われていた。
娘にとっての小学校とは、
地獄でしかなかっただろうなと思う。
頭だけは良く、勉強が異常なほど出来た。
それが原因で、孤立するようになった。
小学一年生のある日、テストがあった。
皆点数が取れなかったが、
娘だけは100点だった。
友達に囲まれて、どうやって100点を取ったのかと聞かれた娘は、
え、だって教科書に書いてあったでしょ?
みんな読んでないの?
と答えた。
当時娘は見たものを記憶出来る能力が強く、
教科書を読めばほとんど覚えていられた。
娘にとっては普通の事だったが、
お友達には普通の事ではなく、
娘は嫌なヤツと認定されて、
卒業するまで執拗ないじめに遭う事になる。
一見するといい能力のように思われるが、
嫌な事も覚えて忘れられない。
いつでもフラッシュバックのように、
嫌な事を思い出せる。
娘にとって、水に流すという事は出来ないのだった。
ADHDの私とは、相性が最悪だったように思う。
私は気まぐれで、いつも同じが大嫌いだった。
が、娘はルーティンからはみ出るのを異常に嫌がった。
ある日病院までの道のりを、
違う道に変えたとたん、
突然後部座席から大声で叫び出し、
戻って!いつもの道にして!!
と言われた事もあった。
過疎地なので他に車もなかったので良かったが、
街中であんな声を出されてはたまらない。
それ以来、今日は違う道を通るからと、
告げねばならなくなった。
とにかく大変だった。
大学生になると、はっきりと困ることが増えて来た。
勉強が人の十分の1の労力で出来た娘は、
とにかく時間が沢山あった。
が、アルバイトを嫌がり、
まだ娘が大学2年くらいまでは私も働いていたように思うが、
ねぎらいもなければ家事一切をしなかった。
洗濯は液体洗剤を入れる量を、
何故か覚えられず、
娘の記憶力は勉強と嫌な目にあった時だけに特化していた。
濡れた洗濯物を触ると、
手のひらが辛いと言って、
ほとんど干さなかった。
食器洗いも同じだ。
料理に至っては大嫌いで、
多分食材が何かを分かっていなかったのだと思う。
なのにお菓子作りだけは大好きで、
作るだけ作って、シンクは汚れ物の山だった。
もっと娘の気質に理解があれば、
もう少し娘は楽だったろうにと、
最近女性の発達障がいの動画を見て、
そんな事を思うようになった。
出て行った事はもう過ぎた事なので、
そこはもう自分の中で終わった話だが、
それとは別に、
もう少し理解があったらと後悔する事はある。
小学生の頃の娘はいつも泣いていて、
鈍臭くて意地悪ばかりされていた。
そんな娘を見るのがいつも辛かった。
何故娘はあんな嫌な目つきの女の子に、
遊ぼうよと言っては、
酷い暴言を言われては仲間ハズレにされるのに、
懲りずにまた遊ぼうよと言うのかと、
不思議で仕方がなかった。
どう見ても遊んでくれないだろうし、
なんなら思いっきり嫌われているだろうに、
何故なんだ娘よと、
参観日になるといつも思っていた。
娘の気質がそうさせていると気づくのに、
随分と時間がかかった。
人が羨むほど勉強が出来る自分と、
それ以外の事が何も出来ず、
無視されたり嫌がらせを受けたりして、
それが何故なのかも分からない自分。
優越感と酷い劣等感を抱えて、
非常に苦しそうに生きていた娘。
もっと娘の気質に理解があれば、
そう思う自分がいる。
彼氏だけが心の拠り所だったのだろう。
なんであれ、好きな男と一緒にいるのだ、
(たぶん きっと)
良かったと思う。
今でも私がストーカーだと思い込んでいるのか、
何を思っているのかは分からないが、
恋人の隣で幸せだと良いなと思っている。