勤めた設計事務所の本社は東京にあり、

受注する仕事も東京近郊のものがほとんどだった。

 

建設現場に常駐するスタッフを派遣する事業もしており(というか、どちらかというとそちらのほうがメイン)、

急ぎの人材が見つからないときには、仙台にも声がかかることがあった。

 

 

いろいろな世界を体験してみたい気持ちが湧いてきたわたしは、あるときその誘いに乗ってみた。

 

 

東京駅のすぐ目の前の建設現場にCADオペレーターとして派遣されたのだった。

 

 

それは、そこに派遣できる人材が見つかるまでの「繋ぎ」の役割だったが、

表向きは、長期で常駐する風に装う必要があった。

 

現場のみなさんが歓迎会を開いてくれたが、わたしはどこか後ろめたい気持ちだった。

 

だって、数週間しか滞在しない予定で、こちらは来ていたのだから、、。

 

 

そんなこんなで、わたしは数週間でその現場を立ち去ることになった。

 

すると、またもや、みなさんが送別会を開いてくれた。

 

 

その現場には、わたしと同年代の女性が数名いたが、ふだんの仕事ではあまり関わることがなかった。

 

送別会の席で、わたしははじめて彼女たちとゆっくり話をすることができた。

 

 

当時のわたしは、親に学費の返済をすることが苦痛でたまらなかったので、そのことを愚痴ったら、

「わたしも学費を親に返してるよ」

という同い年の女の子がいた。

 

これまで、わたしの身近にはそういう人が自分以外にいなかったので、わたしはとても驚いた。

 

「親も、学費払うお金がないなら、学校に入学する前に教えてくれればいいのにさ。そしたら、もっと学費が安い学校を探すことだってできたのに。」

という彼女の話に、

わたしは自分自身のことが恥ずかしくなった。

 

わたしは親から、家にはお金がないから国公立以外に行かれては困ると言われ続けていたにも関わらず、親への反抗心だけで私立大へ行った。

 

それでいて、学費を親に返済することを不満に思っている自分が、いかに自分勝手だったかを思い知った。

 

彼女は、親に学費を返済しながら、東京で一人暮らしをして生きていた。

 

パラサイトして生きているくせに、不平不満ばかり言っている自分がとてつもなく情けなく思えた。

 

 

高校生のころから親元を離れ、自立して生きているという子もいた。

 

東京で生きる同年代の女性たちが、強くたくましく素敵に見えた。

 

 

恋愛の話にも花が咲いた。

 

20代なかばから後半というお年頃。

 

結婚に憧れは抱きつつも、まだそこまでの焦りはない。

 

恋人との結婚が頭に浮かびつつも、もうすこし先延ばしにしてもいいかなあ、みたいな、そんな時期。

 

わたしは、彼とのあいだに抱えていた問題を彼女たちに話した。

 

今日で最後、

もう二度と会うことはないかもしれない、

そんな彼女たちだったからこそ、

それまで身近な人には打ち明けられなかったことを語れたような気がする。

 

「うーん、それはしんどいね。」

 

「あいちゃん、そんな人とは別れちゃいなよ。」

 

「東京に来れば、もっといい人見つかるよ。」

 

「あいちゃんなら、もっとしあわせな人生を生きることができるよ。」

 

なんて言葉を次々とかけられた。

 

 

東北という閉塞的な土地にいるときには気づけなかった世界が、そこには広がっていた。

 

自分が井の中の蛙だったことに気づいた瞬間だった。

 

<<次の記事 I 11 ふたりでいると孤独

>>前の記事 I 09 自立への芽生え