夏の甲子園で、宮城代表の仙台育英学園高校が見事優勝し、東北勢の長年の夢であった「深紅の優勝旗の白河の関越え」を果たした。
「白河の関」とは、福島県白河市にある奥州三古関のひとつに数えられる関所であり、みちのく(=東北)の玄関口として古くから認識されてきた。
江戸時代の俳人・松尾芭蕉も、「白河の関にかかりて 旅ごころ定まりぬ」と詠んだといわれている。
高校野球では、一度も甲子園での優勝がない東北勢の悲願として、「優勝旗の白河の関越え」という表現がされてきた。
東北勢が全国高校野球選手権決勝に勝ち上がった歴史は、なんと第1回大会(1915年)の秋田中学校にまで遡る。
第1回大会は10校で争われ、会場は甲子園球場ではなく大阪・豊中球場だったそうだ。
戦争による大会の中断もはさみ、その後しばらく東北勢は不振だったが、1969年に、じつに54年ぶりに三沢高校(青森)が決勝に勝ち進んだ。
その決勝戦は延長18回引き分け再試合となったが、翌日の再試合で残念ながら敗れてしまった。
その後も、1971年磐城(福島)、1989年仙台育英(宮城)、2003年東北(宮城)、2011年と12年は二年連続で光星学院(青森)、2015年仙台育英(宮城)、2018年金足農(秋田)が決勝まで勝ち進んだものの、準優勝で終わった。
そして、今回、ようやく仙台育英が優勝を果たし、真紅の優勝旗が白河の関を越えた。
仙台育英の須江監督は、このことを「100年開かなかった扉が開いた」と言ったが、東北の高校野球ファンにとってまさに「歴史的瞬間」なのである。
じつは私もかつて高校球児を追いかけていたことがある人間なのだが、
私が高校野球ファンになったきっかけが1989年の仙台育英の決勝進出だった。
当時私は中学1年生だったが、宮城県の高校が初めて決勝に勝ち進んだということで世間じゅうがにぎわっていた。
スポーツ好きの父が、テレビにかじりついて応援しているので、私も自然と高校野球の試合を観ることになった。
野球のルールはほとんどわからなかったが、私もとりあえず応援していた。
決勝の日は、当時、宮城県仙台市泉区の七北田公園で開催されていた「グリーンフェアせんだい」という都市緑化フェアの会場の大型画面で応援した(今で言う「パブリック・ビューイング」?)ことを、今でもおぼえている。
そのとき決勝で敗れてしまったことは、にわかファンの私にも悔しい記憶として残っている。
その夏以来、春と夏の甲子園にはテレビ観戦をするようになり、私は気がつけば高校野球の虜になって、自分が高校を卒業するまで、高校球児を追いかけつづけたのだった。
最近では、その熱はすっかり冷めてしまっていたが、それでも東北勢が甲子園で勝ち進めば、当時の想いがよみがえり心が浮き立つ。
生きているうちに「白河の関越え」を見たいという思いは、ずっとずっと胸の奥にあった。
おそらく、おなじように感じてきた東北人は多いだろう。
「遂にこのときが来た!!」
「長年の悲願が成就した!!」
仙台育英の優勝に、今、東北は大賑わいである。
地元では、仙台育英野球部にまつわる、さまざまなエピソードがニュースに取り上げられているが、
私は中でも特に、仙台育英野球部の【日本一からの招待】というスローガンに心打たれた。
2017年夏の甲子園では8強入りした仙台育英だったが、その4か月後に、控え部員らの飲酒・喫煙が発覚する不祥事があり、当時の監督が辞任したあとを、現監督である須江監督が引き継いだ。
その須江監督が、秀光中(仙台育英高校の系列中学校)の監督時代から掲げてきたのが、この【日本一からの招待】というスローガンだそうだ。
「【日本一】を取りに行くのではなく、【日本一】から招かれるようなチーム、高校球児になろう」と、私生活から日本一にふさわしい振る舞いを意識するよう指導したという。
技術のみならず、「あり方」を意識することの大切さを、仙台育英の優勝は教えてくれているように感じる。
私も、仙台育英ナインを見習い、
【一級建築士】を取りに行くのではなく
【一級建築士】から招かれるような自分であろう。
【一級建築士】となった自分はどうありたいか、
そんな理想のすがたをイメージしながら、
日々を生きてみよう。