こんにちは。

 

北国弘前も蒸し暑いが続いています。

 

皆さまお元気でお過ごしでしたでしょうか。

 

 

 

 

さて今回はまたまたまた季節がずれてしまいましたが、6月号(第586号)より

 

小野いるまさんの『俳人の詠んだあおもり』 の9回目 です。

 

 いるまさんの以下の3冊の著書から、月1回の割で、澁柿園の俳人を中心にご紹介しています。

 

『俳人の詠んだあおもり』   (2008年 北方新社)

『続俳人の詠んだあおもり』  (2009年 北方新社)

『俳人の詠んだあおもり第3集』(2010年 北方新社)

 

また現役俳人でもいらっしゃるので1句ご紹介。

 

     今月の一句

        

    三内の六本柱や青芒   いるま

  

                          (青森県句集第34集)

 

 

 

 

小野いるまの

  俳人の詠んだあおもり⑨ 

     

     小田桐 耕風(おだぎり こうふう)

 

  一徹さのある句風 

 

小田桐耕風は、弘前高校校長をやられたあの小田桐孫一の長男である。

孫一は、教師に転進する前は、文芸春秋の敏腕記者だった。名文家として知られ、第一戦を退いたあとも小田桐壷木の俳号で俳句を作り、エッセイを書いた。

 

弘前を拠点とする俳誌「渋柿園」に連載した「俳諧徘徊」と題するエッセイは、ことのほか評判がよかった。

連載は昭和五十二年三月から始まり、たちまち同誌の目玉になった。 渋柿園代表藤田枕流の一文がある。

 

「連載第一回を手にして、これは大変なものが始まったと思った。 詩友の誰もがそう感じた筈である。何しろその昔、文芸春秋の記者として敏腕をふるった先生のこと、流麗な筆致はもちろん、文中に登場する人物のバラエティに富んでいるのをはじめ、深くかつ広い学識に裏づけられた内容は、地方の一同人誌にはもったいないものだった」。

 

 

 

 

 

連載は五十回で完結の予定だったが、四十九回で筆者が亡くなり、不本意な形でピリオドを打つ。しかし、この連載は、息子耕風の手で一冊にまとめられ、壷木・耕風の俳句も含めた「父子俳諧集」の名で平成九年五月に出版された。出版は当初、耕風の定年退職記念の形にしたかったようだが、退職してからではかえって淋しさを誘う……と思い直し、一年前倒しした、とあとがきにある。

 

耕風は、父の勤務先東京で生まれた。父は文芸春秋に七年間勤め、帰郷して教師になった。 耕風も弘前での暮らしが長く、弘前大学を卒業して聖愛、五所川原工業などに勤務。 弘中央高時代、 故田中十四郎から誘われ、職場句会の「おうよう句会」に入って俳句を始めた。長内禎孝の口ききで 「十和田」へ投句した時期もあったといい、現代俳句、伝統俳句と間口の広いのがこの人の特徴。

 

前述の「父子俳諧集」は二部に分かれ、一部は父のエッセイをまとめた「俳諧徘徊」、そして二部が耕風の句集「朝の虹」となっている。耕風の句集には、彼が俳句を始めた昭和五十七年以降の作品二百九十八句を収め、「風」の同門で先輩に当たる伊東一升が序文を書いた。一升は、風や十和田に所属した彼の経歴を踏まえ、「そのせいかなるほど客観写生の素地と、定型をこなす力が備わっていることが感じられた」と、卒直な感想を述べている。句集名の「朝の虹」は、集中の

 

朝の虹申し訳ほどパンちぎる  

 

からとった。 一升は「物に託した自画像。朝食にはパンをほんの少しつまんだだけ。そこに朝の虹を配したことで、背景に重い実感覚が生じてきた」と鑑賞している。

 

 

 

 

 

一徹の血潮満たせり受験の子

 

耕風の句には、打ち込みが尋常ではない一徹さがある。それは血潮であり、血のざわめきでもあるだろう。重厚でありながらナイーブな感性。耕風のそうした句風は、父の壷木ゆずりのものではないかと、高森ましらは見る。

 

柿たわわ教え子嫁ぐ日の近し

 

下り着き上りの発てり駅おぼろ

 

今年四月から耕風は、伊東一升の後を継いで「さわら俳句会」の代表になった。彼の住む弘前市栄町の俳句愛好者でつくる会で、メンバーは十八人。沢木欣一の「風」で育った一升の影響が大きいと思われがちだが、オブザーバーで竹鼻瑠璃男、廣田丘映が名をつらねていることもあって、句風は割と自由闊達。かつて「越えがたい父であるゆえに、その存在は大きな壁であった」と高森ましらに書かれた耕風も父の七回忌あたりから壁の向こうが見えてきたらしい。

 

反骨の血もほどほどに鮟鱇鍋

 

俳句を詠むことが、父との邂逅であることに気付いた、とましらは言う。平成二十年「長勝寺」 二十句で渋柿園賞を受賞。県民文化祭文芸コンクールの俳句部門でも大賞をとるなど、鋭い感性は健在だ。

 

          (『続俳人の詠んだあおもり』2009年刊・北方新社)

 

 

 

 

 

 

 

《大仏公園吟行》

大仏公園は今紫陽花の盛りである。

過日の梅雨晴れ間、句友と吟行に出掛けた。

 

 

 

以下の青字は弘前市観光情報のサイトから引用

 

大仏公園

面積約3.6ha。最寄り駅はJR石川駅。

戦国時代には、南部23代安信の弟高信(26代信直の父)が「津軽郡代」として入部し、

南部氏の津軽経営の拠点となりましたが、津軽統一を目指す大浦(後の津軽)為信に攻められ落城。

現在は史跡等はありませんが、春の桜や初夏のあじさいは、隠れた誘客スポットとなっています。(※入園無料)

 

気温がかなり上がっていて、日陰ばかりを選んで歩いた。

 

三十三観音の石像のひとつ。暑くて巡る気になれず、

下から仰ぎみる。

 

紫陽花も暑そうだった。

 

 

 

 

 

大仏公園には50㍍ほどのぼれる高台があり、

弘前の市街地を一望できる。

眼下を流れる川は平川(ひらかわ)。

 

ちょうど大鰐行きの弘南電車が通った。

たまに鉄道ファンが、この地で撮影しているそうだ。

 

紫陽花の園や眼下をゆく電車  鈴之介