こんばんは。

 

ご訪問くださりありがとうございます。

 

 

今日の弘前は爽やかな一日でした。

 

 

 

 

 

第577号で18回にわたった鳴海顔回さんの

『俳句で行くあおもり』が終了しました。

 

今号からは

著者である小野いるまさんのご承諾を得て、

 

『小野いるまの

    俳人の詠んだあおもり』 

 

  と題して下記の3冊から月に一回

  渋柿園俳句会の俳人たちを中心にご紹介していきます。

 

『俳人の詠んだあおもり』(2008年 北方新社)

『続俳人の詠んだあおもり』(2009年 北方新社)

『俳人の詠んだあおもり第3集』(2010年 北方新社)

 

 

         

 

 

 

 

   小野いるまの

         『俳人の詠んだあおもり』

 

  ①川口 爽郎 (かわぐちそうろう)

 

     鳥類研究でも有名  🐦

 

川口爽郎は俳人、教育者、鳥類研究家の三つの顔を持っていた。 板柳町生まれで、父も素酔の号を持つ俳人。父は石井露月の主宰誌「俳星」 に投句。河東碧梧桐(へきごとう)が三千里の旅で青森県を訪れた時は、板柳に一泊して句会をやっている。爽郎もそうした父の影響を受け、北海道桧山郡柏村で教員をやっていたころから俳句を始めた。彼を俳句に誘ったのは、隣接の江差高女の教頭古田冬草。冬草は後に「緋衣」を創刊・主宰した俳人で、仙台の永野孫柳らもこの俳誌に名を連ねていた。

爽郎は道内の小学校教頭、小樽市立高女の教諭などを経て昭和二十年七月、弘前高女へ転勤した。自宅のある板柳からの列車通勤であった。間もなく終戦。この間も句作は休まなかった。二十二年、会津正治、太田鉄杉らと板柳俳句会を立ち上げ、初代会長に。自宅で開く月例句会は、会員たちの熱気が溢れていた。そのころの作品。

 

富士悠容道化の顔の青案山子 爽郎  

 

翌二十三年、中村草田男の「萬緑」に入会、北海道時代の俳句仲間だった孫柳の「俳句餐宴(きょうえん)」や地元誌の「暖鳥」にも名を連ね、活躍の場は広がった。二十五年、板柳高校へ異動、自宅から歩いて通えるようになった。浮いた時間はもちろん俳句に向けられた。

雲海や今も教うる外知らず      爽郎

 

教師の道をひたすら歩み続けた爽郎らしい句である。 同年七月、五能線沿線俳句大会を初めて開き、自らも機関紙「津軽野」の発行人となった。 二十六年六月 「萬緑」 同人に。同九月、東奥日報社主催の青森県俳句大会に特別選者として来県した中村草田男を板柳に招き、 成田千空らと歓迎句会を開いた。草田男は爽郎宅に二泊し

 

野は林檎町はあかあか晩鴉に満つ 

                                          草田男

などの句を残した。爽郎は愛蔵のレコードを草田男に聴かせ、「岩木山の最も美しく見える所には、必ず美人がいるそうですよ」と、太宰治の一節を紹介した。黙って聞いていた草田男は、すかさず

 

風の凌霄

 

 

(この

 

 

(きれいな岩木山 

                 草田男

と詠んだ。爽郎も負けないくらいたくさんの句を作った。その中の一句。

 

家一つ今も老婆の夏暖炉         爽郎

 

四十三年、第一句集「土魂」を刊行。四百句を収めた。序文で師の草田男は「骨の髄まで地方生活的な土性骨がある」と書き、 大野林火も朝日新聞に寄せた書評で「津軽の一教師のうた。〈春泥の真ん中牛の眼が通る〉など強い生命力に貫かれている」と高い評価を与えた。 平成二年には第二句集「鸛」を刊行したが、作品の自選に精魂を使い果たし、あとがきを書く気力さえなくしていたという。ちなみに第二句集を刊行した時は、八十歳を越えていた。

 

四十四年、今度は野鳥観察の記録を一冊にまとめた「板柳の野鳥」を刊行。四十六年には日本野鳥の会正式メンバーに。県が行う自然環境調査では、爽郎は鳥類の項を担当、各地の踏査は数十回に及んだという。鳥研究の集大成として五十七年、北方新社から出した「万葉集の鳥」は高い評価を受けた。

五十三年、船水以南らと結社を超えた「弘前吟行会」を結成。毎月どこかへ吟行することにした。同会は山田一穂を代表に、今も活動が続く。爽郎の蒔いたタネの大きさを改めて思う。同じ年、弘前市俳句連盟が発足、会長は文句なしに爽郎と決まった。

 

秋の蝶空高く行く観音寺        爽郎

 

弘前吟行会のコースのせいもあるだろうが、晩年はお寺を詠んだ句が多かった。彼の句集の序文で成田千空は「身の丈六尺に近い頑健な体だが、眼はことさら大事にした。 彼の俳句は嘱目吟を本領とし、それ以上に野鳥観察がライフワークであったから、眼は彼の命そのものであった」と書いている。 平成元年、八十一歳で没。 息子の紘も俳句をやり、父の遺志を継いで野鳥観察に走り回っている。

              (『俳人の詠んだあおもり』2008年刊・北方新社)

 

 

 

 

  

小野 いるま氏略歴鉛筆(本名 小野亥留馬)

 

 東奥日報入社。 平成九年退社。

昭和六十二年から俳句を始める。 平成二年「薫風」入会。同六年同人。

平成十年「銀化」入会。同十八年青森県俳句賞。

俳人協会会員・青森ペンクラブ会員。

著書に「あゆみ続けて―青森県カメラ材料商組合50年史」 「むつ小川原

と青森県」「いにしへ写真館」 「田沢吉郎伝」 (共著)など。

                (『俳人の詠んだあおもり』略歴紹介より抜粋)

 

 

 

 

 

 

 

(我が家は雑草園)

 

庭に出たら、アジュガにまぎれて蛙がいた。 蜻蛉も親し気にやってきた。

 

 

 

 我が家と隣家の庭を行き来していた雉のファミリー

 

この頃、日中の天候がおだやかなので、動物たちも気持ちがよさそうだ。