Die Welt ist tief. 世界は深い……ニーチェという哲学者は、なぜか陳腐に見える言葉を使う……昔からそう思ってましたが、この言葉もそう。「世界は深い」……

たしかに、この言葉だけをとりあげると、詩人をめざしている学生なんかが使いそうな安易な言葉に見えるのですが、その後に、und tiefer als der Tag gedacht. 昼が考えたよりなお深い……この言葉が続くと、ちょっと様相が変わってきます。

昼……とは、なんだろう。昼の思考……それは、解説書なんかでは、いわゆるアポロン的世界というふうにとらえられている。そこで、ニーチェのディオニュソス的世界が対比される。いちおう、そうなってると思います。しかし、この言葉は、そういう範疇をこえて、なお現代の世界にまで響いてくるものがある。

1700万円のアイスクリーム(リンク)が食べられるパリの街を、いちおう「明るい昼の世界」としましょう。そうすると、そこに響いた銃声は、それは暗く深い夜の底からもたらされたものだったのか……

それはそうなのかもしれません。ニーチェの言葉は、相互に関連することによってゴムのように伸び縮みをくりかえして、いつのまにかいろんなものにからんでくる。

一つ一つの言葉は大向こう受けのする実は陳腐なものなのかもしれないけれど、それらが立体的にからみあって響きを交換しはじめると、そこにはだれもがちょっと切実に感じてしまうような「事情」が浮かびあがってくる……そういう構図になっているのかもしれない……このあたりは、ルキノ・ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』によく描かれていました。

この映画は、あるサウンドトラックを境にして、明確に昼の世界が夜の世界に、アポロンの顔がたちまちディオニソスのそれに変貌します。

感覚的には、フィルムのちょうどまんなかくらいかな? 主人公のアッシェンバッハ氏(マンの原作では小説家・映画では作曲家)が、ヴェニスのリドのホテルの砂浜で、ビーチチェアに身を沈めつつ、楽しそうに遊ぶポーランドの貴族の一家を眺めている……いや、眺める対象はただ一人。ギリシア彫刻のような美しさを生身に持つフラジャイルぽい少年、タジオ……ただ、ひたすら見ている。

そこに……ひそかに、低音弦の響きがしのびこんできます。

これは、たぶん1回や2回くらい見ただけでは気がつかない。私も最初はわかりませんでした……これが、マーラーの第3交響曲第4楽章の、アルトの歌唱の前奏……やがて場面は変わり、暁の闇に沈むホテルの窓。開かれると、そこにアッシェンバッハの姿。

パジャマのままの寝起き状態で、明けゆく空を眺めている……ゆったりと響くアルト。ニーチェの『世界は、深い、昼が考えたよりなお深い……』を歌う……ここを蝶番としてこの映画は暗転し、そこから先はアッシェンバッハの最後まで止まらない。

ヴィスコンティ監督が、ここにマーラーのこの曲を嵌めたのは、もう実に神ワザに近い嗅覚……

映画でのアッシェンバッハの風貌は、マーラーではなくまさにニーチェ。この映画の評で、ときおり作曲家アッシェンバッハのモデルはマーラー……と書いてあるものがありますが、マーラーとは似ても似つかない。これはまさにニーチェそのものでしょう。

マンの原作では、小説家アッシェンバッハはヒゲがない。マーラーにもありません。しかし映画の作曲家アッシェンバッハは、まさにニーチェのような口ヒゲを持って登場する……アッシェンバッハ=ニーチェを、かなり意識的にやっている。


この映画は何度も見ましたが、最初は、やはり歌唱の内容(歌詞)に気をひかれた。ツァラトゥストラの一節を、そのまま歌う。おお人よ、注意せよ、世界は深い、世界は、昼が考えるよりなお深い……私は、眠っていた……深い夢から、今覚めた……「超訳」になってすみませんが、そんな感じ。

しかし、何度も見るうちに、この曲が、実は明るい昼の世界に照らされた海岸のシーンからはじまっていることに気がついた。昼の世界に、そうっとしのびよる夜の手……それが、コントラバスの静かな、目立たない優しい前奏として、いつのまにかそこにある……もう、そうなったときには手遅れ。昼は、深い夜の世界に囚われた……

このことに気がついたのは、なんかで読んだ文章。西欧世界では、「深い」という言葉と「低い」という言葉に関連がある……と書いてあった。そうか!なるほど……マーラーは、思いつきで「世界は深い」の歌の前奏を、低音のコントラバスではじめたのではなかったのか……ドイツ語の辞書をひいてみると、「tief」(英語のdeepに相当)の項に、「深い」とともに、たしかに「低い」という訳がのってます。

そういえば、ツァラトゥストラは、その物語の最初で、それまで暮らしていた「山」から「降りた」untergehen のでした。この言葉を「没落」と訳していた人もいたみたいですが、たしかに、高いところから低いところへ、高みから深みへと「降りていく」……これが、この物語の主題の一つになってます。

アポロのオリュンポスの高みから、ディオニソスの地上へ……すべてが明快で、理性が支配する天上の世界と、すべてが混沌とした闇に支配される地上の世界の対比……

しかし、本当にそうなのだろうか……

私は、以前、出雲大社にお参りして、びっくりした経験があります。このことは前にも書いたように思いますが……高天原の天上に対して、地上の世界を象徴するかのような出雲。

出雲は「地の神々」の集まる地……そんなイメージのあった私は、出雲大社にお参りすれば、きっと、さまざまな地の神々が発する旺盛な「気」の力が混ざり合い、渦巻くものすごい混沌、そして深い闇の力みたいなものを感じるのではないか……そんな先入観がありました。ちょうど、アマテラスの岩戸隠れの際に、天の安河原でアメノウズメに触発された八百万の神々の「バカ騒ぎ」みたいな……

ところが、ところが……出雲大社の社頭に立ってお祈りを捧げていますと、私の心の目には、まったく意外な光景が……

それは、前後左右上下に空間を埋め尽くすおびただしい数の歯車……大きいのから小さいのまで、無数の歯車……しかもすべての歯車がきちんと噛み合って、静かに回転している……その光景は、正確無比で、混沌の入り込む余地などまったくない……

そうか!これが出雲の本質なのか……私は、ものすごく強い印象を受けました。なるほど……物質の世界って、こういうもんなんだ……すべては「法則」によって、一つの例外を生むこともなく、整然と、流れるように運ばれていく……

おそらく、「深み」を「混沌」と見てしまうのは、われわれの誤った先入観なのでしょう。あるいは、「混沌」は、実はわれわれ「見る側」にあるといってもいいのかもしれない。

それほどに、「理性」から遠い世界の方が、むしろ秩序整然と運ばれていて、「理性」を標榜する世界の方が実は混乱と混沌に満ちている。

フランスは「理性の国」ですが、そこで起こった悲惨なできごとは、理性からはるかにかけはなれた現象のように見えます。そして、それを「テロ」と呼んで、混乱と混沌をすべて「起こした側」になすりつけようとする狂気のような傾向性……

「キミたちは、ワタシから、憎しみを得ることはできません。」(妻を殺された男性の言葉)……なんという言いよう。屈折しまくってる……これを「理性」と見るのでしょうか……

なんでもぜんぶトリコロールにしてしまうのが「理性」なのか……そう考えてみると、人間の世界は、やっぱりどこも、あんまり変わりはないような気もしてきます。

一部に平穏で豊かな暮らしがあったとしても、では、それがなにによって支えられているのか……

みせかけの平和と豊かさを「理性」といい、それを破壊しようとする側を「テロ」と呼んで、混沌と混乱をすべて片方になすりつけようとする……実は、そういう思考こそが、まさに混沌と混乱ではないのか……

わたしには、どっちもどっちに見えます。無責任で恥知らずの「豊かな生活」と、それをぶち壊し、引きずり降ろそうとする、ある意味「スナオな」反応……

「豊かな生活」の側に「理性」があるとするなら、「テロ」の側にもまったく同じだけの「理性」がある。

「テロ」を「混沌」と決めつけるとき、自分たちも同じだけの「混沌」に陥っているのを自覚すべきでは。

「理性」と「暴力」を、きっちりイコールで結ぶ視点。

「見せかけの民主主義」や「偽りの理性」がその正体を晒し、消えていかねばならない地点。

パリのアイスクリームが、実は1700万円だったことが、正しく認識される場所。

今のわれわれには到達するのが困難かもしれないけれど、それが、やっと「本当の出発点」になる。

世界の「昼」と「夜」…… Ist die Welt tief ?

力は、それを持っているものにとっては、往々にして透明になる。

人は、自分のよって立つ場が、「力」に守られていることを、意識しなくなる。
しかし……その「力」によって踏みつけられ、抑圧されている人にとっては、それはものすごい壁であり、大岩のようにのしかかってくる。

こういう構図が、今、世界のどこでも顕著になってきているように思います。

日本では、沖縄と原発の問題が、いちばんこれを現わしているように思う。

米軍基地のほとんどを沖縄に押し付けて、楽しい生活を送っている「本土」の人々……
原発事故のしわ寄せを、福島の人だけに押し付けて、そしらぬ顔で日常を送る我々……

沖縄や福島の人たちにとっては、自分たちに苦しみを押しつけてくる「力」は、眼前にある現実のものだ。
しかし、それを押し付けている側の我々にとっては、その「力」は透明になってしまう。
われわれ自身が、その「力」に押しつぶされる側になるまでは。

なぜ、こういうことになるのかといえば、私たちの感性が、「他者の苦しみ」に対しては、きわめて鈍感にできているからにほかならない。
パリの街に日常を取り戻し、再び「楽しい暮らし」をはじめようとする人々……
恥ずかしいと思わないのだろうか……

自分だけ良ければ、いいのでしょうか?
狂ってる……

そんなに、なんでもトリコロールで塗りつぶしたければ、自分がトリコロールのめがねをかければいいでしょう。
そこで……そういう自分の行為が、「透明になる力」に支えられていることを知る……

これからの世界、「恥ずかしい人々」と「恥ずかしくない人々」に分かれる。

「恥ずかしい人々」は、自分のよって立つ場が、「透明な力」に支えられていることをまったく意識せずに、「テロとのたたかい」とかほざく人々……
「恥ずかしくない人々」とは、どんな人たちをいうことになるのでしょうか……

この問題は、「存在の根」にまで降りていったとき、にわかに、すべての人々にとって、ぬきさしならぬ重大な問題となる……
そう、思います。

The power becomes sometimes transparent for people having it.

We have the tendency that become not aware of "the power" which protects us.
However that power is really huge wall for the people who are suppressed by that, and that power presses them, like gigantic rock.

I think such a situation becomes remarkable in the world now.

And in Japan, I think that Okinawa and a problem of the nuclear power generation show these situation most typically.

People of "the mainland" lives a good life, but their pleasant life is established by pushing most of the US bases to Okinawa.

We send everyday life as if nothing happened, but on the other hand, we force the influence of the nuclear plant accident on only people of Fukushima.

For people of Okinawa and Fukushima, "the power" is a real which forces pains everyday.
However, for us who are protected by that, the power becomes transparent……until we ourselves become the side crushed by the "power."

Why these situation become?
The reason is the lack of the sensitivity of our mind.
People who enjoy their daily life, become not sensitive for others who send daily life with pains.

The people who regain daily life in the town of Paris, and are going to begin "a pleasant living" again……
You are ashamed ?

Only yourself are good, is it real good ?
In that, is there the truth ?

If you want to see everything as tricolor, you should hang the glasses of tricolor, shouldn't you.
And you will know that your pleasant daily life are protected by the transparent power which presses other people who have not that power.

I think this world shall become divided two, one will be know shame, and the other will not.

People who don't know shame, will shout "a fight against terrorism", but they don't know that their pleasant daily life is suspended by the transparent power.
So, the word "who know shame", will mean what type of people?

I think this problem shall be most serious for all people in the world if they descend to the root of "Being".

この項は、『1700万円のアイスクリーム』(リンク)の続き(リンク)の続きです。

ライプニッツのモナドは、『窓を持たない。』これは、本来モナドというものは、他者との交流が存在しない存在であるということ……こういうふうにしか解釈できません。しかし、現実のこの世界では、われわれは、いろんなモノ、いろんなヒトと「交流」しつつ生きています。これはいったい、どういうことなんだろうか……

私が、私であること、だれかがだれかであること、そしてなにかがなにかであること……「モナド」は、この「一性」を保証するものであって、「……であること」そのものだと思います。しかし、これと「他との交流」は、根本的に矛盾する。私の中に「他者」が入ってきた場合、つまり、モナドに「そこを通じてなにかが出入りする窓があった場合」……

私の「一性」は崩れ、私は、私なのか、それとも流入してきた「他者」なのか、わからなくなる……するとこの世界は、すべてが混沌として、今みられるような、私が私であること、だれかがだれかであること、そして、なにかがなにかであること……そのすべてが混交して、完全なカオスだけがある「全体=一者」とならざるをえない。

アイスクリームが1700万円であること、あるいは300円であること……今の私たちにとっては、その差、つまり1699万9700円は、まことに大きな開きに見えますが、もしモナドに「窓」があったとしたら、1700万円も300円も、どっちでも一緒にになってしまう。すなわち、アイスクリーム一個が1700万円で流通する市場も、300円で流通する市場も同じ……

ということは、「市場」そのものが成立しないことになる……なにを極論を言ってるの?と思われるかもしれませんが、ある一定の「市場」が成立するためには、「私」という「一性」、これを、人間(のモナド)一人一人が具えている必然性がある。そうしないと、アイスクリーム一個のお値段が「市場」で決まることはないでしょう。

私は、以前は、こういう社会経済の問題が苦手で、個としての自分は、いったいなんだろうか……ということにばかり関心が向かっていました。個としての自分の謎……それにくらべれば、社会や経済の問題など、とるにたらないのではないか……ダレが貧しかろうが、ダレが儲けておろうが、そんなことは人間の「我欲」の問題で、「真理」からすればとりあげるに値しない……

しかし、このライプニッツのモナド論に含まれる根源的な矛盾、すなわち、「個であるモナドが、他と交流できるのはなぜか?」という疑問につきあたってからは、もしかしたら、社会経済的な問題というのは、根源的に、「個である自分と他者」の関連に帰着するのではないか……と思うようになってきた。そうすると、ここのところはけっして無視なんかできない大問題だ……

動物はどうなんだろうか……猫なんかを見ていると、もしかしたら人間ほど「自分」と「他者」の区別はないんじゃなかろうか……とも思えてくる。猫になったことがないのでわかりませんが、人間が猫を見ていて、一匹一匹の猫が「分かれて」見えるほどには、猫にとって、自分という猫と他の猫、さらにいうなら、自分をとりまく環境全体は、分かれては認識されていないのでは……

私は、この問題と、「人間だけが市場をつくる」という問題が、どうも不可分のように思えてきました。猫は、交換経済を知らない。他の猫となにかを交換することによって、自分の暮らしを成立させていくということをやりません。しかし、人間はやる。なぜだろう……人間の社会では、どんな世界のすみずみまでも、「交換経済」が行われ、さまざまな「市場」ができあがっていく……

「原始」とか「未開」とかの社会はしりませんが、必ずそれは生まれてくるのではないだろうか……そして、その「市場」がいったん生まれてしまえば、それは、「為替」というマジックによって、一瞬にして「世界全体」に開かれてしまう……これが、今の世界の根源的なありようのように思います。モナドの窓……これは今もないのでしょうが、あたかもあるかのように……

人間というのは、やっぱりふしぎな存在だと思います。猫が「交換経済」を編み出して、世界中の猫と、「市場」を介してつながっていく……こんなことは、考えることも難しい。しかし、たとえば一匹の「蚊」はどうなんだろう……と考えると、これは、なぜか猫より難しいように思えます。「蚊の交換経済」……もし、そういうものがありえるとしたら……

蚊の世界の「貨幣」は、動物の「生き血」になるんだろうか……ドラキュラみたいな「血を吸ういきもの」の世界では、貨幣が「生き血」になることは十分に考えられます。最近公開された映画で『ジュピター』(原題は『ジュピターアセンディング』)というのがありましたが、あの中では、「人間」を収穫して、「命の水」を搾り取り……その「命の水」を貨幣として取引していた……

しかし、蚊を見ていると、「生き血」を貨幣として「市場」を成立させているようには見えないし、猫を見ていても、マタタビを貨幣としているようにも見えません。なにかを「貨幣」として、交換経済を行って「市場」を成立させているのは、おそらくこの地球では、人間だけなんでしょう。とすると、「ヒトのモナド」は、他の存在のモナドと、なにかがちがっているのか……

身体性ということに着目するなら、猫や蚊は、その身体性において、「他者との交流」を行っているように見える。この点は、ヒトもまったく一緒で、なにかを食べて「同化」し、また「異化」して排泄する……呼吸もそうだし、なにか精神的なものさえそのように見えてきます。脳のシナプスは、外界の刺激を受けて組み立てられ、組み直されていく……

しかし、人間の場合には、やっぱりそこに「市場経済」というのが必ず介入する。自給自足という概念があって、最近ちょっとはやりですが……これは、端的にいうなら「市場の否定」であって、これを究極的に実践するということは、「意識してモナドの窓を閉じる」ということになると思います。というか、モナドにはもともと「窓」はないから、「モナドに窓がないということを、どこまでも意識する」ということにほかならない……

日本の江戸期の「鎖国」政策を考えてみますと、あそこでは、日本という島国の中では、「ほぼ自給自足」が成立していた。しかし、日本の中ではやっぱり「市場」が形成されて、いろんな取引がありました。そういう意味では、あれは根源的な「自給自足」とはいえない。じゃあ、ホントの自給自足ってなんだろう……と考えてみると、これは、とても難しいんじゃないかと。

あるTV番組で、瀬戸内の島を買って「自給自足」をやってる人(タレントさん)を紹介していました。でも、太陽電池パネルは反則ですね。工業製品だし……そのほかにも、いろいろ工業製品を使っている。だいたい、島に渡る船だって、だれかが造ったものを買っているわけだし……「市場」の網からは逃れていない。

そもそも「自給自足」をやろうと思った時点で、これは「市場」を意識しているから「負け」だと思います。それより、もしかしたらホームレス生活の方が「自給自足」に近いんじゃないかなあ……やったことがないからわかりませんが、人間がつくりだす「市場」から外れる、外れない……は、もしかしたら、「意識」の問題なのかもしれません。

人のモナドは、なぜか、「他者との交流」に「市場をつくる」道を選択する。これは、おそらく世界のどこでもそうで、この「市場をつくる」という働きが、もしかしたら「人間であること」そのものなのかもしれない……もし、世界に、自分という人間ひとりしかいなかったら、当然「市場」をつくることはできない。要するに、自分以外の他者には、そういう「ヘンなこと」をするヤツがいないから……

では、自分と、もう一人の人間「他者」がいた場合はどうなのか……自然から「取って」きたものを、互いに「交換」するということはありえるでしょう。でも、それを「市場」といえるのか……といえば、ちょっとムリがあるような気がします。まあ、「相場」をつくろうと思えばつくれないことはないのでしょうが、でも、二人だけの「相場」は、はたして「相場」といえるんだろうか……

じゃあ、3人では? 4人では? ということになるんですが、こういう設定もあんまり意味がないのかもしれません。要は、人間と、他のいきものは、いったいどこがどう違うんだろう……ということで、そこは、もしかしたら「普遍」意識がからむのかもしれないと思います。つまり、自分と自分に接するまわりだけで世界が成立しているのではない……という意識なのかな?

これは、もしかしたら想像力なのかもしれませんが……目の前で、リンゴが樹から落ちる……いや、私はまだ、リンゴが樹から落ちる光景を見たことがないから、棚からボタモチが落ちる……とでもしましょう。うちの棚からボタモチが落ちれば、当然、よその家の棚からもボタモチが落ちるだろう……これは想像力ですが、自分とこだけじゃなくてよそも……というのが「普遍」意識の萌芽かも。

「市場」は、この「普遍」意識と密接に関連すると思います。一つの市場で、AさんがBさんにCという品物を100円で売ったとしたら、Aさんは、Dさんにも同じ品物を100円で売らなければならない。これが普遍的な交換価値であって、人によって200円になったり50円になったりするんでは「市場」は成立しない。やっぱり、これを担保するのは「普遍」意識なのでしょう。

ところが、この品物を別の市場に持っていったら、10円になった……あるいは1000円になった……こういうことは、よくあることだと思います。市場は閉じていて、その中だけで「普遍」が成立する。そして、市場には、モナドと違って「窓」があって、それは「おカネ」自体の交換価値を決定する為替の働き……ここらへんになるとよくわかりませんが、たぶんそういうことでしょう。

では、人間以外の動物に、なぜ「市場」がないのか……といえば、それは、やはり、彼らには、「普遍」意識がないからなのでしょう。「普遍」意識はとてもふしぎなもので、本当に存在するのは今、ここにあるモノだけなのに、想像力で「世界」とか「歴史」とかを編み出してしまいます。そして、いったん編み出された「世界」や「歴史」は、あたかも「今、ここ」の「上に」君臨するかのように意識される。

ライプニッツは、「モナドの支配」ということを言っています。これを私の理解で言うと、たとえば、私自身もモナドだけれど、私の身体をつくっている60兆の細胞の一つ一つもモナドである。しかし、私という一つのモナドが「歩くぞ!」と思えば、その60兆のモナドすべてが「私が歩く」に奉仕する。このとき、私という一つのモナドは、60兆のモナドを支配している……

単純な解釈かもしれませんが、そんなように思います。まあ、実際には、一つの細胞を構成しているいろんな要素も一つ一つがモナドだから、60兆のモナドの支配だけで終わるわけはなく、さらにその何兆倍、何十兆倍のモナドを支配する……生命は、みな、こういうふうに、一定期間他のモナドを支配する体勢を与えられているから、まとまった「個体」に見えるし、「個体」としてふるまう。

しかし、通常は、私というモナドに、全身の細胞60兆のモナドを支配しているぞ!という意識はありません。これは私だけじゃなくておそらくどの人もそうだし、どんな生き物でもそうでしょう。まあ「食べる」という行為自体、「他のモナド」を自分に組み込んで「支配するぞ」という宣言になっているわけだし……でも、そのことは意識せず、「うまい、うまい!」と言って食べてます。

しかし、人間が、「普遍」を意識したとき……少し様相は変わると思います。人の目は、人の心は、眼前の「生の現実」から離れて漂いはじめ、「今、ここ」にはない世界へと心が開かれていく……これは、もしかしたら「モナドの窓」が開いたのか……なんて思うんですが、たぶんそういうことはない。なぜなら、モナドに窓はないから……にもかかわらず、ないはずの窓が開く。これはふしぎなことだ……

人が「市場」をつくりだしてしまうのは、もしかしたら、ないはずのモナドの窓が「普遍」意識によって開いてしまったとき、それでもなお「統覚」を保持するために「普遍意識」自体を囲い込みに出る……その働きによるのかもしれないと思います。わかりませんが、「市場」の囲い込む性質を考えてみるとき、なぜかそういう気持ちになる。檻から放たれた獣の不安……

とりあえず、今私に考えられるのはここまでなのですが、この問題は、人の「個」であることと「社会的存在」であることをつなぐねじれた糸のようなもの……吉本隆明さんの言うように、「個である私」と「社会」は常に倒立関係にあるものだとすれば、それはやはり、モナドの持っている根源的性質であり、畢竟、それは、モナドの「一性」に還元できるものなのかもしれません。

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