うちの前に置いてあるハスを植えた大きな鉢にも秋がきました。
忙しいので、あんまり世話をしていない……ので、そのまま、鉢の中の秋が、濃くなっていきます。
見ていると、ライプニッツの言葉が浮かんできました。
『物質の各部分は植物が一面に生えている庭や魚がいつぱい入っている池のやうなものだと考へることができる。而もその植物の枝やその動物の肢体やその水の滴の一つ一つが又さういふ庭でありもしくは池である。』(河野与一訳)
これは、『モナドロジー』の中の一節ですが、当時、顕微鏡が普及して、「ミクロの世界」が見えるようになったのが影響している……とも言われている有名な箇所です。世界は、無限の入れ子細工になっていて、どこまでいってもまだその先に「世界」がある……この「鉢の中の世界」も、そういう意味では「無限」なのかもしれません。
モノの究極ってなんだろう……「原子論」の世界なのかもしれないけれど、モノは分子でできていて、分子は原子でできていて、原子はそれ以上分解できない素粒子から成っている……と考える現代科学の階層的な考え方とはかなり違う見方が、ここにはあるような気がします。
バロック?といえばそうなんでしょうが、仏教にも同じような考え方があったような……ただ、これは、マトリョーシカみたいな単純な「入れ子構造」というのではなくて、もっと、モノの本質にかかわるあり方のような気がする。しかもそれは、「観察者の存在」がそこに大きくカンケイするような……
というか、モノを観察しているようで、実は、観察している自分も観察する。モノの世界のあり方というのは、本来そういう複雑な関連を除いてありえない。そして、そのすべては、大きく「地球」という惑星に収斂されていくのではなかろうか……「宇宙」ではなく「地球」。そして、私自身。
そういう意味では、「ハスの鉢の宇宙」ではなく、「ハスの鉢の地球」なのかもしれない。そして、「ハスの池の私」。Lotus of pond of the earth. Lotus of pond of myself. この文章が、英語として意味を持つのかどうかはわかりませんが、「universe」つまり「一韻」というのは、バロック的ではないなあ……
別に、バロックである必要はないんですが、この「ハスの鉢の中……」を眺めていると、やっぱりバロックだなあと思ってしまいます。別に、一つの価値観に統制される必要はないのではないか……いろんなものが混ざりあっていて、それぞれにまた、その中にいろんなものが……
とりあえず、この混沌を統一的に見せているのが「鉢」であって、それを統一的に見るのが「私」……「統覚」の問題も関連するのかもしれませんが、この鉢が割れてしまえば、この中の宇宙も消滅する。私が壊れてしまえば、やっぱり「宇宙も」?いや、それはないでしょう。
というのは、「私」は「宇宙」に属するものであり、「私の身体」は「地球」に属するもの……なのだからでしょうか?「身体」は壊れて「地球」に戻ることができるかもしれないけれど(日々壊れて戻りつつあるけれど)、「私」は壊れることができない……この統覚のふしぎ……
というか、モナドのふしぎ……ライプニッツは、「モナドは本当の原子」だと言った。この「本当の原子」って、どういう意味だろう……見ているうちに、空は曇ってきて、このふしぎな「ハスの鉢の世界」も輝きを失い、「灰色のモノ」の世界に戻っていったのでした。

