<かたちなきもの:精神>と<かたちあるもの:物質>……この両者の間には、絶対に開くことのできない扉がある……まあ、デカルト的に<思惟:パンセ>と<延長:エクスタンション>といってもいいのですが……このように、世界を二元論的に分割するという考え方に、そもそも抵抗があるという考え方もあると思います。しかし、私は、ものの考え方としては、この2分割は、思っているよりはるかに有効ではないか……と最近、考えるようになりました。

このことについては、前にも書いたように思いますが……たとえば、私が、目の前にあるコップをとろうとして右手を伸ばすとします。その動作自体は、「かたちある世界」すなわち、物質の世界、延長の世界で、私の肉体という「かたちあるもの」が運動する……そういうふうに記述できるものだと思います。しかし、では、「コップをとろう」という「私の思い」自体はどうなのか……これは、精神、かたちのない世界、思惟の世界で展開するものなのではないか……

「いや、人間の精神なんてものも、脳内の電気パルスや化学反応にすぎない」という考え方もあると思います。しかし、電気パルスや化学反応というものは、やっぱり扉のこちら側……明確に、「かたちのある世界」に属している。電気パルスや化学反応は、それは単に「物理化学現象」でしかないものであって、私の「コップをとろう」という「かたちのない思い」とはまったくの別物……それは、哲学的にいうなら、「延長」の属性を持つものであって、「思惟」の属性を持つものではない。

ただ、このように、「コップをとろう」という「思い」を、なんとか「延長の世界」の範囲内で説明したいという欲求……こういうふうに、「延長」の世界、「かたちあるもの」の世界から「思惟」の世界、「かたちなきもの」の世界へと、ギリギリ肉迫したいという欲求も、また人間に普遍的なもののようで、この傾向は、現代ではますます強くなっているようにも思います。重厚長大から軽薄短小へ……科学技術の一般的な傾向として、物理系、化学系から電気系、電子系、光系へと進む……

と、言った学者もおられましたが、たしかに最近のコンピュータ技術やネットワーク技術を見ていると、そんな感じもいたします。ネットワーク理論の教科書によく出てくる「アプセトネデブ」、つまり、最下層が「物理層」になっていて、その上にデータリンク、ネットワーク、トランスポート、セッション、プレゼンテーションの各層がのっかり、最上層がアプリケーション層になっているという構造……この構造自体が、ゴリゴリの「かたちのせかい」から、身をよじり、もがきながら……

「かたちのない世界」への扉へと肉薄していきたい……そんな、なにかけなげな「かたちのせかい」の住人たちの、もうこれしかないという必死の思いこみの……そのさまは、まさにダンテの地獄篇から天界の光を求める阿修羅?のごとく、はたまた一本のクモの糸に無限の群衆がぶらさがって練獄の世界から仏のおわす光の世界へよじのぼりたいという……そういう、なんともやるせない人間の「光を求めてやまない」心の欲求のせつなさみたいなものを感じるのですが……


しかし、いくら手を伸ばしても、この「扉」は無限に遠のく。ギリギリまで肉迫できたように思っても、ハッと気がつけば身はまだ物質界の練獄にあって、「かたちの欲望」の炎に焼かれている……これは、まことにふしぎなことだと思います。われわれは、日常、お茶を飲みたいなと思って目の前の湯のみに手をのばす……そういうカンタンなこと、日常、なにげなくやっていることが、「意識」が生じたとたんに、「かたちある世界」と「かたちなき世界」を無限に遮断する、あの「扉」が現われる……

ということで、この扉は、おそらくは、人間の意識に大きく関係したものであると思われます……というと、なあんだ、じゃあ、カンタンじゃん。意識しなければいいんではないの?ということになるのですが、意識はそうカンタンにわれわれを解放してくれない……まあ、それでも、扉が意識の中にしか存在しないものなら、それは別に気にすることもないじゃん……という考えもあろうかと思います。しかし……現実には、人の意識が、この物質の世界に働きかけて、物質の世界を大きく造りかえていく……


『古事記』にオモダルという神様が登場します。漢字で書くと「於母陀流神」。『日本書紀』では「面足尊」(オモダルノミコト)と書くようで、意味的にはこちらの方がわかりやすい。面(オモ)は、かたち、つまり現象的、物理的な世界を意味していて、「かたちの世界の整い」を表わす神であるということのようです。では、精神の世界、かたちなき世界の整いを表わす神は……といいますと、これはアヤカシコネ「阿夜訶志古泥神」で、岩波の古典文学大系の註では「人間の意識の発生」と書いてありました。

私は、あるとき、夢で、「オモダル、ヒダル」という言葉を受けたのですが……「オモダル?」たしか『古事記』に出てきたような……と思って『古事記』を調べてみますと、この方は、いわゆる「神世七代の神々」の一柱で、イザナギ、イザナミの直前に登場する神様のようです。私は、夢で受けた言葉から、この神とペアになる神が「ヒダル」だと思いこんでいたのですが……しかし、『古事記』のこの箇所で、オモダル神(男性)と対になって現われる神は、アヤカシコネ(女性)なのでした……なぜだろう??

ということで、今度はヒダル神の方を調べてみました。すると、この神様は、山道をゆく人に「空腹感」を覚えさせる神様なんだそうです。この神は、旅人にとりつき、とりつかれた人は、突然の空腹感に一歩も進めなくなり……ひどいときには死に至ると……これではまるで妖怪ではないか……ということで、以下は私の妄想なのですが(というか、これまでもやっぱり妄想なんですが)……『古事記』にオモダル神として現れている神様の、本来のペアは、やっぱりヒダル神ではなかったかと……

オモダル神が「面足神」であるのなら、ヒダル神は「霊足神」つまり、人の「かたちなき本質」、デカルト的にいうなら「思惟」であり、「精神」である部分を表わす……そういうことではないかと思います。「霊」という字を「ヒ」と読むのは、言霊をやっている人には常識のようで、彼らは、たとえば「人」は「霊留」、つまり、「霊(ヒ)」を「留める」から「ヒト」なんだと……これでいうと、「ヒダル」、つまり「霊足」は、かたちのない部分、精神的な側面が充足されること、という意味になる。

先に、人間に意識が発生すると同時に、精神と物質のあいだには開くことのできない扉が出現する……と書きましたが、日本の神々のシステムにおいて、なぜ「オモダル」の相方が「ヒダル」ではなくて「アヤカシコネ」であるのか……その事情が、この「精神と物質を遮断する扉」のことを考えると、納得できるような気がします。「アヤカシコネ」、つまり「人の意識」が登場することによって、本来のペアであるべき「オモダル」と「ヒダル」は本質的に切断され、疎外されて……

「ヒダル」はついに、妖怪のごとき存在にまで堕ちてしまったのか……それはわかりませんが、私は、やはり本来は、「オモダル」のペアは、「アヤカシコネ」ではなく「ヒダル」であると思うのです。これは、私が夢で受けた言葉……というだけではなくて、『古事記』において登場する「神世七代(かみよななよ)の神々」のペアの名前をみていってもそう思います。「神世七代の神々」の最初に生まれる神は、「クニノトコタチノカミ」(国之常立神)次に「トヨクモノノカミ」(豊雲野神)で……

このお二人は、「ペア神」ではなく「ひとり神」ですが、あとに続く3組はすべてペア神……ウヒヂニ(宇比地邇・男性)スヒヂニ(須比智邇・女性)、ツノグヒ(角杙・男性)イクグヒ(活杙・女性)、オホトノヂ(意富斗能地・男性)オホトノベ(大斗乃辨・女性)……というように、明らかに男女ペア+音韻ペアになってます。で、オモダルとアヤカシコネが現れて、ここで音韻ペアが崩れますが、最後のイザナギ(伊邪那岐・男性)イザナミ(伊邪那美・女性)でまた音韻+男女ペアとなります。


なぜ、オモダルで音韻ペアが崩れてしまうのか……やはり、物質と精神をつなぐ架橋部分は、ホントに難しいと見るべきか……この「架橋」がきちんとなされれば、つぎにイザナギ・イザナミの創造神ペアが現われて、ここから「国生み」と「神々の誕生」が開始されます。なるほど……オモダル・アヤカシコネ(・ヒダル)の部分は、そこに至る「最後の難関」なのか……『古事記』の神々には、今も解明されていない複雑な内部構造があって、なにか「隠された部分」を感じさせられるのですが……

「神世七代」の神々の最初に登場するクニノトコタチと音韻ペアとなるアメノトコタチ(天之常立神)が、神世七代」の神々に先立つヒエラルキーである「別天津神(ことあまつかみ)」の最後に位置するというのも、どこまでも気にかかるナゾ……まあ、しかし、あまりに『古事記』の世界に深入りすると、ますますわけがわからなくなるので、このあたりでやめておきます。今日の冒頭の写真は、お正月の2日に実家に行ったときに撮ったもので、庭の木々のシルエットがガラスや網戸に映って複雑な陰影を見せています。