バッハの「聖アン」で、三位一体、トリニティの話が出ましたので、ちょっと調べてみました。私たち日本人が「三位一体」ときくと、「安い・早い・旨い」とか「三高」とか、ロクなものがうかんできませんが、西洋では、これは「父なる神と子なるキリストと聖霊」が「一体である」という崇高な?意味になります……といわれても、よくわからないのですが……無宗教の日本人にとっては、神とキリストと聖霊が一体であろうが別々であろうが、どこが違うの?? と、いまいちピンとこない。
まあ、日本人にとっては、仏教は葬式のために、神道は初詣のために、そしてキリスト教はクリスマスのためにあるようなもんですから、とりあえずそれぞれの「雰囲気」だけがあればいい。「三位一体」を知らなくても、カンケーなくクリスマスはお祝いできる……しかし、キリスト教の人にとっては、この問題はかなり重大なことのようです。「三位一体」を肯定するか否定するか……これは、初期の公会議(第1回ニカイア、第1回コンスタンティノポリス)で、大論争になった……
第1回ニカイアが325年、第1回コンスタンティノポリスが381年ということなので、今からもう千数百年前……で、この論争を経て、「三位一体じゃ!」という人たちが勝って、今のキリスト教になったと……なので、カトリックもプロテスタントも、「三位一体」だけは同じ。「三位一体じゃないよ」というキリスト教の人たちもおられますが、ごく少数派だそうで……うちには、毎週「ものみの塔」の方がこられますが、この宗派もその少数派の一つであるということです。
この方によると、新約と旧約を合わせた聖書全体で、「三位一体じゃ!」とはっきり書いてある箇所はどこにもないんだと。ただ、「ヨハネによる福音書」の冒頭に『言葉は神であった。』と書いてある。これが、唯一やっかいな箇所なんだそうです。「言葉」は、ギリシア語の原語では「ロゴス」で、これは「キリスト」を表わす。これについては異論がないそうですが……そうなると、この『言葉は神であった。』という記載は、三位一体を否定したい人たちにとっては非常に困る。
この箇所、原語ではどうなっているかというと、「kai theos ehn ho logos.」と書いてある。発音は「カイ テオス エーン ホー ロゴス」で、「カイ」は「and」、「テオス」は「神」、「エーン」はbe動詞の三人称単数過去形。「ホー」は定冠詞(男性単数主格形)、「ロゴス」は「言葉(キリスト)」。つまり、直訳的には「そして、神はロゴスであった。」となるわけで……すくなくとも、神とキリストが一体ということは、ここに書いてあるじゃないかと……
これに対して、「ものみの塔」の方は、「テオス」に冠詞がついていないことに着目した。本来、「テオス」は男性単数主格形なので、「ロゴス」と同じ「ホー」という冠詞がつくはず。しかし、この箇所だけついていないのは、「テオス」が「神」という意味でなく「神的なもの」という意味だから……したがって、ここは、「神はロゴスであった」と訳すのではなく、「ロゴスは神的なものであった」と訳さなければならないのだと……そう、おっしゃいます。
うーん……どうなんでしょうね……学校で古典ギリシア語をちょっと習っただけの私にはよくわかりませんが……まして、新約聖書の言語であるコイネーのギリシア語についてはほとんどわからないし……ただ、フツーの訳では、ここは「言葉は神であった」と訳していて、「神的な」とかいっさい出てきませんから、ものみの塔の方の主張も、「三位一体」を突きくずしたいがためのゴリ押しみたいにもきこえてきます。いったいどっちの解釈が正しいんでしょうかね。
まあ、それはさておき、私の関心は、「なんで三位一体みたいなややこしいアイデアを導入しなければならなかったの?」ということに尽きます……先に、三位一体ぽいことが書いてあるのは、聖書全体で『ヨハネによる福音書』だけ……と書きましたが、この『ヨハネ』は、他の三つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とちょっと違うことは、4福音書をひととおり読んだ人はだれでも感じることでしょう。私も、はじめて読んだとき、「ン?これだけちょっと感じがちがうな?」と思った。
聖書研究の定説では、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は、ほぼ同じ時期(1世紀の終わり頃)に書かれ、ヨハネだけが10年くらい?遅れて成立したということのようです。したがって、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は「共感福音書」(Synoptic Gospel)と呼ばれることもある。これに対して、ヨハネは「独自の道を行く」という感じで、かなり論理的で洗練された印象……まあ、素朴な「共感福音書」に理論武装を施して、他の宗教や思想とも充分戦えるように……
なにか、そんな配慮みたいなものを感じてしまうのですが……ただ、他の宗教や思想と戦えるようにするということは、当時のいろんな考え方の論理構成も取り入れてしまうということで、これは痛し痒し……なんですが、「共感福音書」から10年?経つと、もうここまで理論武装しなくちゃならないということは、当時、いかに宗教や思想の「せめぎあい」が活発であったか……ということをうかがわせます。どの宗教が、思想が、地中海世界を席巻するのか……
この「上部構造闘争」に最終的に勝利したのが、結局、後に「カトリック」となっていくキリスト教だったわけですが……その「勝利への道」の第一歩が、『ヨハネによる福音書』に見られるあの理論武装だったと考えるのは、いきすぎでしょうか……ともかく、「三位一体」への明確な萌芽が、この福音書ではじめて見られるというのは確かなようで、これは、裏を返せば、「三位一体」というアイデアは、地中海世界における上部構造闘争のきわめて有効な武器の一つであったと……
そういうことになるのかもしれません。まあ、現実に、このアイデアをめぐっては、キリスト教内でも4世紀頃まで延々と論争が続いたようですし、一旦決着がついても、現代でもなお「ものみの塔」の方々みたいに「むしかえし」の議論をふっかける勢力もあるわけです……日本人にとっては、もうホント、どっちでもいいような遠い観念の争いが、なんで西洋の人々にとってはあれほどに重大なモンダイになってくるのか……ここは、日本人にとっても、やっぱり気になるところ……
「三位一体でないと、ナニが困るのか?」こういうモンダイの立て方をしてみると、このアイデアの本質みたいなものが、もうちょっと見えてくるのではないだろうか……そんな風にも思いました。まず、「父なる神」は、これは、世界の外にいて、この世界を自在にコントロールするオールマイティーであることはまちがいない。人間は「世界の中」にいるわけなので、「世界の外」の神のことはまったく知ることもできず、神様がナニを考えてるのか、推察することさえ不可能……
しかし、「子なるキリスト」は、「世界の中」の存在である……人間の肉体を持ってこの世界の中に生きる存在であり、その点が「父なる神」とまったく異なる。キリストが「ロゴス」であると言われるのは、この世界を統べる法則……すなわち「世界のロゴス」であるということなのでしょう。そして、この「ロゴス」は、世界の中のものなので、当然、人間の理性にも理解が可能です。ここが、まったく理解不可能な「父なる神」と根本的に異なるところ……
そして……理解可能であるどころか、この「ロゴス」は、人間にとって、それを理解することにより、「世界を意のままに変えていく」道具ともなりえます。それは、一つには数学や物理学や化学の「法則」となり、それを「発見」することによって、人は、世界の構造や働き方を理解できるだけでなく、逆にそれを積極的に「使う」ことによって、世界自体を自分の欲するように変化させていくこともできる……これは、「人による世界の支配」の根幹になるアイデアだ……
この「ロゴス」には、自然科学系の法則みたいな側面と同時に、スピノザが追求したような「倫理的」な側面もあると思うのですが……現代では、「自然法則」の面の追求ばかりが突出的に進化して、とうとうオソロシイ世界に……まあ、それは、またちょっとちがう話になりますが……ともかく、キリストである「ロゴス」は、それをうまく「使う」ことによって、人間が世界の支配者となり、この世界を自由に造りかえていける、いわば「造物主」的な道を拓いたのか……
ただ……もし、この世界内ロゴスであるキリストが、世界外の存在である「父なる神」とちがうものであったとしたら……私は、どうも、「三位一体」のキーはそこにあるような気がするのですが……もし両者が「ちがう存在」であったとしたら、キリストであるロゴスを通じて得た人の「ちから」も、実は「神のもの」ではないことになる……これはまさに「グノーシス」みたいな考え方になると思うのですが、自分が手に入れた力に「神のもの」である「承認印」が押されていない……
となると、やっぱりこれはマズいのでは……たとえ、キリストが神から「派遣」されたものであったとしても、「神そのもの」ではない以上、だれか別の「新しいキリスト」が派遣される可能性だって充分あるわけです。で、だれかが、「オレたちは別のキリストさんからメッセージをもらったよ」とふれまわったとしても、それを止める本質的な手だてがなくなる……要は「正統性」ということなんでしょうが、キリストが神と「同じもの」であるかぎり、この「正統性」は保証される。
つまり、他のダレが「こっちもキリストだぜ」と言っても……神と同じものは「ただ一つ」しかないわけだから、「おまえらのキリストはニセものだぜ」といって排除できる根拠が得られる。しかし、自分たちのキリストが「神と同じもの」でないとしたら……ものごとは、たちまち「相対性」の世界に陥って、あとは力の強い方が勝ち……推量ですが、まず「神とキリストは、本質(ウーシア)において同じである」と主張せねばならなかった根拠は、実はここにあったのではないかと……
そうすると、残るは「聖霊」なんですが……これは、神がキリストになって「世界の中」に入った行いを「神が人を理解しようとした」という方向性で考えてみた場合、「聖霊」の存在は、逆方向、つまり「人が神を理解しようとした」という方向性になるのではないかと思います。そして、神とキリストが「同じもの」であることが、第1の方向性の理解を完全なものとして保証したように、聖霊と神が「同じもの」であることが、第2の方向性の理解の完全性を保証するのではないか……
要するに、キリストは、神から人への架け橋としての神自身であり、聖霊は、人から神への架け橋としての神自身である……こんなふうに考えてみると、神とキリストと聖霊が「三位一体」である必要性が見えてくるような気がします……われわれ日本人は、科学技術をただそれだけでいろいろ使い回し、また新しい要素をいろいろ付け加えているわけですが……もとはといえば、こんなところに根本的なキーがあるのではないか……
とすると、われわれは日本人は、その根本のところを知ることなく、きわめて異質なものに手をだしてしまっているということにもなるのかもしれません。ここは、やっぱりちょっとコワい気がするところなんですが……今日の写真は、雪あがりの空に出現した、ガリラヤ湖ならぬ「池下湖」。この間、野外活動研究会の方々と名古屋市千種区の地下鉄池下駅から覚王山一帯を歩きましたが、その折に撮影したものです。みるからに寒そう……
この「池下湖」を背景に、『ヨハネによる福音書』の冒頭部分を、ギリシア語の原語と、ラテン語訳で並べてみました。日本語訳だと「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」という部分です。ラテン語訳でも、ちゃんと「ET DEVS ERAT VERBVM そして、神は言葉であった。」となっている……ラテン語には冠詞がないから、ラテン語訳ではもろに「神=言葉」です。やっぱりどうも、ものみの塔的解釈は歩が悪いような……
