この本は、私の父の本棚にあったもので、昭和35年(1960)の発行です。もう今から半世紀も前……タイトルが『ヨガ行者の一生』、サブタイトルが『―聖者ヨガナンダの自叙伝―』となっています。発行は関書院。カバーの裏に定価が書いてありますが、なんと、650円。……この本は、今もなお発行されているようで、今の出版社は関書院新社。今、アマゾンで見ると4,536円となっています。

昔、パラパラと読んだときは、「ふーん」というくらいの感想だったんですが、今回、ちゃんと読みなおしてみて、感動しました……こんなにいい本だったんだ……どうも、本って、こちらの状態によって全然変わってくるようで、昔は、私自身がこの本のほんとうのすばらしさをわかるまでに成長していなかった……というか、今、いろんなことがあって、ようやくわかるようになったのか……

とにかく、すばらしい本です。訳者の名前が書いてないのですが、おそらくは発行者の関さんご自身の訳なのでしょう。半世紀も昔の訳文にしては、じゅうぶんにこなれていて、現代の読者でもたぶんあまり抵抗なくすらすらと読めると思います。この本の著者のヨガナンダさんは、1893年にインドに生まれ、生涯をヨギ(ヨガ行者)として過ごした人で、亡くなったのは1952年……

ヨガの達人は、自分の死期がわかるということで、この人もみずからマハーサマーディ(死への瞑想)に入り、さらりとお亡くなりになったとか……まあ、「肉体を脱ぐ」という感覚だったんでしょうね。で、その脱ぎ捨てられた肉体は、死の20日後に埋葬されたそうですが、ぜんぜん腐敗しなかったそうです。われわれだと、死ぬとすぐに葬儀屋さんにドライアイスをもってきてもらうんですが……

それ、必要なし……ということで……共産圏の指導者みたいに不自然な化学処理をするのでもなし……なんでこんなことが可能なのかというと、ヨガの達人は、原子レベルで物質を自在に操ることができるそうで、彼の先生の先生の先生で、5000年?生きてるババジという方は、ヒマラヤ山中に、一夜にして宮殿を出現させたとか……もう、このレベルになると、肉体を着けるも脱ぐも自由自在……

ということで、われわれ物質の世界に深くからめとられている輩は、すごいなー……と感嘆の一途なんですが、実は、この本がすばらしいのは、そういう奇跡そのものの記述ではなく(むろん、この部分もすばらしいのですが)、なんといいましょうか、神を求める純粋無雑の心……この、すーっと通っていく軽くて、しかも真剣、熱のこもったその心に、やっぱり感動してしまうのです……

この本を読むと、ヨガの道は、やっぱりひたすら神を求める道であり、その道は、世界各国各地域のいろんな宗教の根底にある心と通じていく……ということを感じます。事実、この本の中で、ヨガナンダさんは、ヒンズー教もキリスト教もイスラムも仏教も……みな区別なく尊いということをおっしゃってます。すべて、真の神に通じる道であり、大切なのは、真の神を知ることなんだと……

この信念は、彼の先生の先生の先生の……ということで、大昔から受けつがれてきた一つの系統……そこに、真の神はつねに現れて、彼らを導いてきた……それが、どんな宗教のかたちになろうと、あるいは現代科学の探求のようなかたちになろうと、真剣に神を、真実を求める心に区別はないのだと……そこが、いちばん、読む人の心を打つところではないかと思います。今は、無神論の時代なんですが……

でも、現代人でも、やっぱり信じるものというのはあるのだと思います。科学的合理性が表面意識を覆っているが……でも、この本の中に出てくるいろんな科学者は、ヨガナンダさんの眼から見ると、神を求める宗教者とほとんどかわりはないようです。ガンジーもしかり……ガンジーとの出会いも出てきますが、それは、ほとんど二人の聖人の出会いのような感じで、ここもすばらしい……

そして、もう一つ、心打たれるのが、自分の先生に対する絶対的な信頼感……これもすごいです。ヨガの世界では、先生のことを「グル」というそうですが、グルに対しては、弟子は100%の信頼感を寄せる。すなわち……先生の中に神の現われを見て、自分もそこに一体となろうと……そこまでの信頼感があるから、「教え」といいますか、本当に大切なものが、100%受け継がれる……

かつて、禅の本を読んだときに、始祖達磨から代々六祖慧能に至るまで、禅の教えは、柄杓に汲んだ水が、一滴もこぼれることなく次の柄杓に受け渡されるように、「完全に」受け継がれてきたのだ……と書いてあって、これって、どういうことだろう……とふしぎに思った。フツー考えると、100%の受け渡しってありえなくて、いくらか漏れたり、あるいは変質したりするんじゃなかろうか……

世間一般の「教えの伝授」だとそういうことになるのですが……でも、ヨガの世界も禅の世界も「100%」なのでした。この本を読んでいると、なぜ100%なのかが、私みたいな門外漢にもわかってきます。それは、教えの「本質」を受け渡すから……教えの本質は、つねに「一」、oneness 、であって分割できない。だからそれは、100%か0%かで、中間はないのです。そういうことだったんだ……

以前、オウム真理教が世間を騒がせたとき、世の人は、なぜ、あんな教祖に、みんなどこまでもついていったんだろう……といぶかしがりました。私の知り合いの人も、そこがわからなくて、しばらく考えた末に、「金だ……金だな……」とつぶやいた。でも、それは、まったく的はずれな推量であって、真相は、「グルは絶対」、これだったんですね。自分の先生は、疑うことができない。

あの事件、だれがみても「ヘンだ」というしかないできごとなんですが、あそこにみられる「先生への絶対的帰依」の根元は、そこにあったわけです。われわれ外部のものがみると、教祖の麻原さんって、なんの魅力もない肥えたおっさんにすぎないのだけれど、教団の方々にとっては絶対的な存在……ヨガのグルって、そういう存在なんですね。だから、今でも麻原さんは、彼らにとっては絶対存在……

あの陰惨な事件によって、「ヨガ」の評判はだいぶ悪くなってしまったみたいですが、この本を読むと、やっぱりインドに何千年にもわたって受け継がれてきた「ヨガ」の伝統は、すこぶる明るくて健全なんだなあ……と思わせられます。前向きで、建設的で、他の宗教や、科学技術でさえ、学ぶべきところは謙虚に取り入れ、本当の世界、真理の世界を目指してひたむきな努力を重ねていく……

ヨガナンダさんって、けっこう面白い人で、たとえば、ヨガの技術によってモノを食べなくてすむようになった女性のヨギに会いに出かけるシーンがあるんですが、彼は、弟子たちと愛用のフォードに乗ってインドの山道をガンガンとばして……このクルマは、彼が海外布教に行って住み着いたアメリカからもってきたもので、このあたり、けっこう現代的というか大量生産物質文明肯定的というか……

それで、マンゴーの豊かに実る林を通ると途中下車して、弟子たちと一緒にマンゴーを食いまくるわけです。ハラいっぱいになるまで……それで、断食の聖者に会いにいく……このあたり、お茶目というか反骨精神?というか……で、満腹の聖者と断食の聖者が出会って意気投合し、共に神への道を歩んでいることを魂で知り、感激して別れる……うーん、おもしろいとしかいいようがない。

飾らず、権威ぶらず、すなおに、お茶目に……しかも真剣で、ひたむきで、なおかつ明るい……読んでると、なんか、この人、いいなあ……と思ってしまいます。この本が大好きという人がたくさんいる理由がよくわかります。けっこうすごいことがいっぱい書いてあるのに威圧的なものがまるでなくて、なんかともだちと話しているような感覚……でも、書くべきことはしっかりと書いてある。

唯一、原子力にかんしてやや肯定的にみえる記述があり、そこはちょっとひっかかりましたが、まあ、時代が時代……なので、仕方がないのかもしれません。ともかく、本当に久しぶりに「いい本を読んだなあ……」というしみじみとした思いにひたれる1冊。ステーィブ・ジョブズさんが、iPodだったかに入れていた唯一の電子書籍だったそうで……まあ、彼の無限の霊感の宝庫だったのかな?


マハー・アヴァタラのババジさん。ウィキでは「Mahavatar」とつづりますが、このヨガナンダさんの本の中では「avatara」とつづり、「アヴァタラ」とカナ読みしています。どっちが正しいのかよくわかりませんが、要するにこれは「avatar」、化身ということで、マハ(大)がつくから「偉大な化身」ということ。まあ、神人というか、神の化身ということになるのでしょうか……

ヨガナンダさんの本では、『人間の形をとって地上に降下した神』と書いてありました。サンスクリット語で「ava」は「下に」、「tri」が「通過する」で、「下に通過する」、つまり「降下する」ということなんだと。先頃、ジェームズ・キャメロンさんの「アバター」という映画が日本でもヒットしました。あるいは、今、ネットでは、「あなたのアバターをつくろう」なんてよく使われてる。

もう、お手軽もお手軽……空気より軽い意味になって、「降下」どころか無限上昇するしかないような感じですが……この言葉、もとは「地に降臨せる神の化身」っていう、ものすごい重量級の意味……で、この考え方からすると、イエスさんなんかもアバター中のアバター、アバターの権化みたいな感じになりますが……実際に、このヨガナンダの本では、キリストも「アヴァタラ」の一人だと……

それで、キリストさんとこのババジさんとは、対話してるみたいです。ところで、この方の下の?名前の「ババジ」ですが、これは「revered father」つまり「尊い父」という意味なんですと。なので、全体で「偉大な神の化身であらせられる尊い父」ということになります。うーん……これ以上はないスゴイ名前だ……で、お年は?というと、いろんな説があってよくわからない……

いつ、誕生したかが定かではないということで、ヨガナンダさんの本にはおいくつということは書いてないんですが、私が以前に読んだ別の本では5000才と書いてあった……ということは、だいたいB.C.3000年くらい……というと、ちょうどメソポタミアに文明が発生するころ(B.C.3100年)……エジプトでは初期王朝時代(B.C.3150-2686)。まだ、巨大ピラミッドはできていない……

さらにもう少したつとエーゲ文明(B.C.2500~?)やインダス文明(B.C.2600-1900)。ババジさんは、エジプトにピラミッドが建つ様子とか、インド(今のパキスタン)にモヘンジョダロやハラッパーの遺跡の元になった街ができる様子を見ていたことになる。中国だと黄河文明、長江文明の時代で、ババジさんは、黄帝や神農など、伝説の皇帝たちの活躍も見ていたのか……

日本では、縄文時代中期にあたりますね。ババジさんは、この頃の日本も訪れたことがあるのだろうか……一瞬にして世界のどこにでもご自身を物質化できるそうなので、世界中くまなく見ておられたのでしょう……世界の歴史でわからんことがあれば、彼にきくといいと思うんですが……なかなか会えないんですね。これが。でも、ヨガナンダさんの本によると、街の真ん中でも出現されるそうで……

まあ、要するに、必要があればどこにでも出現されるということでしょう。ふだんはヒマラヤの山中におられるそうですが……見た方によると、その風貌は25才くらいの青年にしか見えない……ということだそうです。彼の肖像が残されていて(写真には撮れない)、それを見ると、たしかに若い。スゴイいい身体です。長い髪の毛は赤銅色だそうで……もう、完全にキマッテルという感じです。


で、この方がババジの弟子のラヒリ・マハサヤさん。おじいさんの風貌ですが、この方は、1895年にちゃんと?お亡くなりになってます。でも……それって、死んだフリというか……1895年に亡くなったあとも、すきなときにすきなところに出現されるので、これはもう、「一応死んだ」としかいえない……生と死って、なんだろう……と思います。肉体原子を好きなときに再構成して……

好きなところに現われる。なので、こういう人たちには、生没年はあんまり意味がない。というか、とりあえず人間の世界のために生没年があるんだけれど、実は……という感じです。でも、この方、なぜか、修行の最後まで、「物質文明」にちょっぴり未練というか心残りがあったようで……先に書いた、ババジさんがヒマラヤ山中に、一夜にして黄金の宮殿を建てたというのは、この方のため……

だったようです。ラヒリ・マハサヤさんの「最後の執着」を消すために、ババジさんは、一瞬にして、ヒマラヤ山中に宮殿を建てたんですが、それは、床も壁も黄金で、あらゆるところに宝石がちりばめられた……まあ、「ナントカ秘宝館?」みたいな、お世辞にも趣味がいいとはいえない代物だったんですが……この「物質文明の極地」をみて、ラヒリ・マハサヤさんの「最後の煩悩」はあとかたもなく……

消え去ってしまったそうです。で、この宮殿も「ご用済み」になってあとかたもなく……まるで、タヌキに化かされたみたいな話ですが、まあ、物質文明なんて、そんなものなのかもしれません。すべて、変化しないものはなく、廃墟になって残っても、それも崩壊し、自然に埋没し……となると、「永遠に変化しないものはなにか」……ババジさんは、結局それを問いかけたんでしょう……

この話、どこか、利休と秀吉の逸話に似ています。利休から、「朝顔がきれに咲きました」という知らせを受けて利休のもとに向かう秀吉……その脳内には、庭いっぱいに咲きみだれる朝顔が……ところが、到着すると、朝顔は、ない。ン?という感じで茶室に入ると、その壁には、竹の花入れに飾られた一輪の朝顔が……利休さんは、秀吉到着前に、庭いっぱいの朝顔を全部切って、この一輪だけに……

この両方の話を比べてみると、私はやっぱり利休の勝ちじゃないかと……壮麗な黄金と宝石の宮殿に対して、簡素な茶室の壁に掛けられた一輪の朝顔……まあ、どっちも「人間の意識」という点では五十歩百歩というかどんぐりのせいくらべ?みたいなもんですが、やっぱりちょっと利休の方が勝ってる?気がするのは、私が日本人だからなんでしょうか……外国の人はどう思うんだろうか……

この方は、若い頃にはお役所づとめで、35年勤続の末に退職し、ちゃんと年金ももらっておられたそうです。このあたり、なんか俗っぽい話ですが、ヨガナンダさんの本に出てくるヨギは、こういう人が多い。年金も、けっこうもらってる……このあたり、いろいろ考えさせられます。なお、お名前の「マハサヤ Mahasaya」というのは、「偉大な再来者」という意味だそうです。


そして、この方が、ラヒリ・マハサヤの弟子でヨガナンダさんの直接の師であるスリ・ユクテスワァさん。ヨガナンダさんは、この本の中で、この先生のことを常に尊敬と愛情をこめて語っていて、この二人の関係を読むと、「真の師匠と弟子」の関係って、こんなんなんだ……と感心するとともに羨ましいなと。まさに100%の信頼関係で、それはもう、幼子とお母さんの間の愛情に等しい……

それでまた、この人も、1936年に一応死ぬんですが、でも、死んだあともどこにでも、いつでも現われるので、もうまったく「死」という概念が意味をなさない……死と生の間はツーツーです。こんな話を読んでいると、「死んだらどうしよう」とか「死んだら困る」(漱石の臨終の言葉)とか、なんてくだらないことで人は悩むんだろう……と思ってしまいます。「されど、死ぬのはいつも他人」

こう言ったのは、現代美術家のマルセル・デュシャンですが……せいぜい、これくらいが、今のわれわれに吐ける最高の言葉なんですが、もうそんなもの、軽々と超えちゃってます。なんか、ふしぎな世界なんですが……でも、この人も、自分の現世的な財産管理にはけっこう熱心で、土地や財産を狙う輩には裁判で対抗したりしてる……経済的独立はなにより大切なんだと……

そういう経済的独立がなければ、師は弟子からもらう「あがり」に頼らなければならなくなる……それは一切避けるという強い決意と実際的な努力があったようですね。今の新興宗教の教祖さんたちに聴かせてやりたい話です。信者から絞れるだけ絞って、しかも優遇税制で……もう、彼らは、それだけで地獄行きだ……お布施とか献金とかいうけれど、やっぱり頼ってるんじゃないか……

ということで、このヨガナンダさんの本の「さわやかさ」というか「高潔さ」というものの源泉の一つが、この「経済的独立」というところにあるのは確かだと思います。今の「精神世界」の人たちは、「お金はエネルギーだ」といううまい言い方でこの問題をうやむやにするけれど、現実にちゃんと働いて、お金をもうけて、それを大切に守っていく……これはもう、現実の問題……

この本では、現実の問題は現実の問題として、けっしてそれを「宗教」によってごまかしていないところがあって、そこはおおいに共感を持ちました。私自身、そっちの方は大の苦手で、「絵描きは貧乏なもんだよ」とうそぶいたりしてますが……この本を読むと、やっぱりそれではいかんなあ……と。ちゃんと働いてお金を稼ぐことはとても重要で、それはまた、宗教的な行為にダイレクトにつながる……

そんなイメージを持ちます。ヨガナンダさんのヨガの教えは、今アメリカでSRFという組織になって世界中に支部があるらしいですが……そういう組織になってしまうと、その組織で食う人たちが出てくるから、どうしても新興宗教ぽくなる……まあ、この組織は、ヨガナンダさんの生前からあったみたいですが……ヨガナンダさんも、死後も現れてちゃんと指導してるんだろうか……

スリ・ユクテスワァという名前の意味ですが、スリ sri は「聖」ということで、これは英語の「saint」と同じでしょう。また、ユクテスワァ Yukteswar は「神との一致」ということで、これは「yoga」そのものですね。おそらく「yuk」の部分が「yoga」に当たるんでしょうが……「giri」は「kernel」で、梅や桃の果実の核の中にある「仁」という部分。転じて「核心」とか「心髄」という意味だそうです。


で、この本の著者であるヨガナンダさん。「パラマンサ・ヨガナンダ」という名は、師匠のスリ・ユクテスワァさんからもらったホーリーネイムで、元は「ムクンダ」と呼ばれていました。お父さんの姓が「ゴーシェ」で、「ムクンダ・ラル・ゴーシェ」という名前だった。スワミ教団の僧として正式に認められたときに、先生のスリ・ユクテスワァからパラマンサ・ヨガナンダという名を授かったそうです。

「パラマンサ」は「supreme swan」すなわち「至高の白鳥」ということで、「白鳥」は霊的識別力の象徴なんだそうです。また、「ヨガナンダ」は、yoga(神との一致)+ananda(至福)で、「神との一致を通して至福に至る」ということ。「至福に至る」というのは、なんだか「馬から落ちて落馬」みたいな感じですが、それはさておき、「至高の霊的識別力で神との一致を通して至福を得る」という……

これも、やっぱりスゴイ名前です。でも、この人は、名前負けしてなくて、実際にそれを実践したんだからスゴイなあ……と思うのですが……彼は、実はババジさんから直々に、計画的に、「西洋へヨガを広める人」として霊的培養?を受けていた人だったみたいで、その生涯はまさにそのコース一直線でした。1920年、世界宗教者会議をきっかけに渡米するとそのままアメリカ布教……

彼は、結局15年後に一時帰国するまで、ずっとアメリカで布教活動を行い、ロスアンゼルスに拠点を置いて多数のアメリカ人たちにクリア・ヨガを教えた……それが、今のSRFという組織の母体になっているようです。で、第二次大戦が終了して間もなくマハーサマディ(入寂)に……60年に満たない短い生涯でしたが、インドのヨガを欧米に広めるという魂の目的はちゃんと果たしおえて……

その後、彼が、先生たちのようにいつでもどこでも現れたのか……それは、私にはわかりませんが、まあ、そんなことはたいした問題ではなく、このすばらしい本の中に、今も彼は生きている……読んでいると、ちゃんと彼の息吹といいますか、息づかいのようなものを感じます。日本語なのに……言葉も、人の考えも、ふしぎなものですね。いろんなものを越えて、伝わるときにはダイレクトに伝わる。

この本は、出版されてから半世紀の間、父の書棚に……そして私の書棚に眠っていたわけですが、その長い時の流れを軽々と跳びこえて、今、私の心にすぽん!とはいりました。こういうことってあるんだ……カバーはもうボロボロですが、中身はさすがに昔の製本だけあってきちんと丈夫にできてます。戦後しばらくたってるので紙質もいいし……ホントにふしぎとしかいいようのない出会いでした。