幅が広すぎる通路にずらりとならぶ円柱……これは、名古屋市の地下鉄今池駅の地下街の廃墟です。廃墟らしさはみじんもなく、ただ、ムダに明るくて広い通路。なんにもない。人もほとんど通らない。むなしさをとおりこした、空虚な明るさにみちた空間……人は、ここに佇むとき、三島由紀夫の『豊饒の海』の最後に本多がつぶやく「自分はなにもないところにきてしまった……」という言葉を思い出す。

『豊饒の海』の本多は、輪廻の果てにすべての業(カルマ)が消え失せた「なにもない世界」を見たわけだが、この地下街の廃墟は、それを越えて、もうなんの意味もない、むなしくすらない「均質の場所」を表示する。かつてここには、両側にいろいろな店舗がずらりとならび、それなりに活況を呈していた時期もあった。まんなかの茶色い舗装部分がかつての通路で、両側の白い舗装部分がかつての店舗。

この写真でいうと、たぶん右側の通路のいちばん奥になると思うが……ある動物の名を冠したラーメン店があった。その店で……人の指が出た。ラーメンの中から……当時、新聞にも載って、けっこうな騒ぎになった。もう今から30年くらい前だろうか……なんか、それ以降だったような気がする。この地下街がさびれだしたのは。人通りも減り、シャッターを閉めた店舗が多くなって、忘れられていった。

そして、久しぶりに通ってみたら、このみごとな廃墟。こういうの、「廃墟マニア」とよばれる人々の趣向にかなうのだろうか……廃墟らしい要素がなにもないがゆえに、かえってぶきみにそらおそろしく明るい「ただの空間」……人類は、何万年もの「文明に向かう努力」のはてに、こんなものをつくりだしてしまった。「通路として役立ってるんじゃないの?」……でも、通る人はほとんどいない。

べつに、コワいという感じではない。だから、もっと利用する人がいてもふしぎはないのだが、みんな地上を通る。意味のない空間……それは、もしかしたらもっと本質的にコワいものなのかもしれない。今池の地上は、猥雑で、やっぱりむなしいけれど、至るところに「意味」があふれている。しかし、こういう「意味のない空間」を通るのはコワい。いや、コワいというよりイヤだ。だれも、ここを行きたがらぬ。

ここは、いつまで、このとおりのものとしてあるのだろうか……大災害のときには、臨時の避難所にできるのだろうか……また、昔のようにいろんな店が両側にならぶ、そんなときが来るのだろうか……いろいろ考える。しかし、なにを考えてもただむなしく、私の脳の発する微小振動はたちまちまわりの「無の空間」に吸いこまれて平準化されてしまう……なにもないところにきてしまった……ただ、こうつぶやく以外にない無。