すっかり稲刈りもすんだ田んぼで、カラスが落ち穂拾い……秋のわびしい風情がただよいます。ミレーの有名な『落ち穂拾い』は三人の女性でしたが、それが日本の山里では三匹のカラスになりますか。なるほど……
ミレーの『落ち穂拾い』は、描かれた当時(1857)、「社会主義絵画じゃないの?」と物議をかもしたそうです。当時は、フランス革命(1789)から半世紀以上がたって、ブルジョワ勢力の台頭の時代……
農村では、まだ農奴や小作農が中心で、大地主の畑を耕して、豊かになるのは地主だけで彼らは極貧生活……この絵の農場も大地主のもので、その収穫が終わったあとの畑で、小作農の婦人たちが落ち穂を拾う……
たしかに、そう考えて、見ると、ひどいなあ……と思います。彼方にはうずたかく積まれた収穫の山……そして、収穫を管理しているとおぼしき馬上の人物……小作農は、大地主のものとなる収穫のおこぼれを拾って生きる……
「これが農村の実態だ!」と告発する絵ととられてもおかしくはないのですが、ミレー自身には、そういった「社会主義的な」意識は薄かったとも言われています。彼が描きたかったのは、むしろ聖書の『ルツ記』の一シーン……
『ルツ記』では、夫を亡くしたルツが、義母の親戚の大農場主のボアズに「どうぞ、わたしに、刈る人たちのあとについて、束のあいだで、落ち穂を拾い集めさせてください」と頼むシーンがあります。これに対して……(以下引用)
『ボアズはルツに言った、「娘よ、お聞きなさい。ほかの畑に穂を拾いに行ってはいけません。またここを去ってはなりません。わたしのところで働く女たちを離れないで、ここにいなさい。人々が刈りとっている畑に目をとめて、そのあとについて行きなさい。わたしは若者たちに命じて、あなたのじゃまをしないようにと、言っておいたではありませんか。あなたがかわく時には水がめのところへ行って、若者たちのくんだのを飲みなさい」。
彼女は、地に伏して拝し、彼に言った、「どうしてあなたは、わたしのような外国人を顧みて、親切にしてくださるのですか」。
ボアズは答えて彼女に言った、「あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生まれた国を離れて、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」。
(中略)
そして彼女がまた穂を拾おうと立ちあがったとき、ボアズは若者たちに命じて言った、「彼女には束の間でも穂を拾わせなさい。とがめてはならない。また彼女のために束からわざと抜き落しておいて拾わせなさい。しかってはならない」。
こうして彼女は夕暮まで畑で落ち穂を拾った。そして拾った穂を打つと、大麦は1エパほどあった。』
以上、『ルツ記』の2章7節~17節の引用(中略あり)でした。なお、ここで出てくる「1エパ」という単位は、カゴを現わすもので、「1カゴ」、現在の単位に直すと約23リットルだそうです。1合=1.8リットルで換算してみますと13合弱ということで、これはけっこうな量かもしれません。まあ、われわれはお米しか感覚的にわからないのですが、それでいうと、うちの消費量からすると約一ヶ月分になります。
この作品が描かれた当時は、フランスは飢饉でタイヘンだったそうですが、もしミレーが『ルツ記』に触発されてこの作品を描いたんだとしたら、彼の心には、大農場主を責める心はなかった……ということになります。むしろ、農場主の心得というか、そういうものを現わしているということになるのかも。畑の収穫は、きちんと刈り取る分は農場主の財産になるけれど、落ち穂は神に返す……そんな感覚かな。
これについて、おもしろいことが書いてあるサイト↓がありました。聖書の申命記に、次のような記載があるのだと……(以下引用:『申命記』24章19節)
『あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである』
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_109.html
なるほど……日本でも、たとえば、柿の実を収穫する場合に、全部取らずに枝に一つ残しておくという習慣があったとききます。その一つは、鳥のために……また、畑の野菜なんかでも、たとえば白菜を栽培するときに、端っこの一つだけを「これは虫にあげるよ」と心の中で思うと、虫はその白菜だけを食べて、他の白菜は無事……ということを聞いたこともある。私は畑をやらない(やれない)ので、真偽のほどはわかりませんが、そういうこともあるのかなと思います。
家の前の田んぼでカラスが落ち穂を拾っているのを見て、そんなことも思い出しました。まあ、ふつうの感覚だと、カラスや虫なんかに「全部取らずに残りものをあげる」というのは、ちょっと「美しい」感覚なんですが、聖書の場合には、外国人、孤児、寡婦がその対象となっている。これはどうなのか……もっとも、彼らは、その畑を耕していないということなので、もともと「収穫の権利」はないのだけれど、それでも「分け与えなさい」ということだから、それはいいのか……
しかし、ミレーの『落ち穂拾い』の場合には、実際に畑を耕している小作人の女房たちが落ち穂拾いをしている……それはないんじゃないの?ということで、これは社会主義だ!ということに……このあたり、ホントはどうだったのかわかりませんが、ミレー自身が聖書のインスピレーションでこの作品をつくったんだとしたら……もしかしたら、彼の思いは、社会主義とかなんとか、そんなものを貫いて、さらに広く大きなものの中にあったんじゃないかな……と、そんなふうにも思えてくる。
美術作品のテーマとして、虐げられたものへの同情……そして、虐げるものへの怒り……そんなものから、「イデオロギー」を描く作品に発展することもありますが、そういうものは、「美術作品」として見た場合、たいていうまくいっていない。要するに、テーマがなまなましすぎるといいますか、主体が「イデオロギー」の方にあって、作品が、その「イデオロギー」を表現するための単なる「手段」になりさがってしまっている……これは、ほぼ、いい結果にはならない。
とても微妙なところですが……ミレーの『落ち穂拾い』を見ると、やっぱりその陥穽には堕ちていない。きちんと、「作品」の方が主体になってる。もし、「イデオロギー」を叫びたいのなら、それは言葉で、文章で言えばいいのであって、なにも「美術作品」にする必要はないわけです。ミレーの作品は、作品が主体なので、やっぱりこういうかたちの作品として現わさないかぎり表現できないことを語っている。そして、それは、原則的に、言葉や文章にはなりません。だから絵で描く。
聖書の記載との関連は、そういう意味では微妙なところですが、やはりどう考えても、聖書の記載の方が、単なる「イデオロギー」よりは大きいような気はします。それは、いろいろなことを考えさせられる……聖書は、ある特定の地域と特定の時代に限定されて成立したものだから、必然的に、限定された時代と場所にしか通用しないものの考え方を背負ってるわけですが、書かれていることの中には、それを超えて、やっぱり一種の「普遍」に達していると思わせられるところも多い……
これは、なにも聖書に限らず、仏典でもそうだし、私はあんまり読んでませんがコーランでもそうなのでしょう。日本の場合でも『古事記』とか『万葉集』とか、いろいろ深く考えさせられる書は多い。要するに、人の心が、時代や場所の限定を抜けて、なにかもっと大きく広いものの中に移り住めるような……そんな、全体を抱擁してくれるような「手」を感じるとき、人は、広く「宗教的……」みたいなものの中に抱かれる。ジェームズの『宗教的経験の諸相』みたいなもんでしょうか……
今、世界では、いろんなことが起こって、いろんな地域で、もはやどうにもならないような問題が噴出していますが……そういうものって、どうやって解決したらいいのか、それはだれにもわからないものだけれど、ミレーの禁欲的な絵や、うちの前の田んぼで落ち穂を拾っているカラスをみていると、ものごとはなるようになって、結局は広く大きなものの中に、しかるべきかたちで整っていくのではないだろうか……そんな気がしてきます。まあ、エンベロープというのでしょうか……

