進化論があれば、退化論があってもいいはず……で、思い起こしてみれば、古代ギリシアの思想でそれに近いのがあったような……うろおぼえですが、昔、神々の時代が「黄金の時代」で、だんだん人間がのさばるようになった「青銅の時代」、そして、人間が主流になった「当時の現代」が「鉄の時代」……要するに、時間を遡ればのぼるほど「いい時代」だったなあ……と。これは、世界が「一者」から流れ出したとする「流出説」とそっくりです。新プラトン主義の「流出説」って、ちょっとキリスト教に近い感じもあるけれど、実は古代ギリシアでは、ベースとしてこんな感覚があったのか……

まあ、ペーパー・クロマトグラフィーみたいなもんでしょうか。そういえば、天井にできてる雨漏りのシミもそんな感じですが……宇宙の「ビッグ・バン」もそうなのかもしれません。このあたりをまとめて「退化論」とすれば、これは、「進化論」と真逆なんだけれど、実はそうでもない気もします。結局、向きが違うだけで、「一点を頂点とする価値体系の序列」によって世界ができあがってるところはまったく同じ……要するに、世の中のあらゆるものが「一つの価値体系の系列」の中にきちんと位置付けられるはずであるというのが、こういう考え方の根底にある「見えない枠組み」なのかもしれません。



今、ジェイムズの『多元宇宙論』の解説書を読んでいるのですが(伊藤邦武『ジェイムズの多元宇宙論』岩波書店)これによりますと、明治時代にジェイムズのこの考え方は、日本の哲学者の西田幾多郎に多大な影響を与えたそうです。まあ、要するに、「純粋経験」ということから出発すると、必然的に多元宇宙論になっていく……ということなんですが、西田さんは、純粋経験の部分ではジェイムズの考え方に同意するものの、多元宇宙論の部分で、やっぱり違和感を感じたみたいです。つまり、いろんな価値が並列的に存在するという多元宇宙を提示されても、やっぱりそれらをまとめていく統一的な価値観が……

どうしてもバックに必要なんじゃないかと……まあ、西田さんは、そんな風に思ったらしい。なるほど……ここで面白いのは、そういう「統一的な価値観」を生み出した源流であるヨーロッパ的思考の中で育ったジェイムズが、そういう「統一的な価値観」に対してむしろ否定的なのに、山川草木すべてが神様という「多神教的」日本で育った西田さんが、どうしても「多」のバックに「統一的価値観」を求めてしまうという、いわば「逆転現象」がここで起こっているように見えること……「自分にないものを求めるのだ」といえばそれまでになってしまうのかもしれませんが、アッチが一神教でコッチは多神教……

こういう単純な図式が、ホントにホントだったんだろうか……という疑念も湧いてしまうわけです。「思想」って、「思想」になってしまうと、なぜかかなり明暗が強調されたり、「そう思いこんでるように」デフォルメされたり……そんなところがあるのかもしれません。生活とあまり離れていないような「思想」をみな求めるのだけれど、そうやっていくと「思想」という外観が崩れて、なにがなんだかわからないものになるから……特に、社会や国家に大きな影響を与える……いや、与えなければならないのだ!ということが前提としてあると、それはけっこう不自由といいますか、むずかしいものになる……



ジェイムズの場合、臨床心理学から出発しているから、仮にアタマの中になにか「統一的理論」を持っていても、臨床の場面でカンタンにそれが裏切られる事例が続出する……そんなことを経験しているのかもしれません。これに対して、西田さんは、禅とかと関連が深い当時の日本の哲学的雰囲気で……なおかつ、その当時は、日清日露の2つの戦争に勝って「強勢大国」への登りエスカレーターに乗ってた日本の風潮……そういうものからすると、ヨーロッパの19世紀に遅れちゃならんと……日本独自の、なんかヨーロッパ思想にも勝つ(というか少なくとも負けない)思想を形成しなきゃいかんと……もしかしたら「邪推」になるのかもしれませんが、なんとなくそんな感じもあったのではないかと……

明治初期から中期にかけて、西欧発の社会的ダーウィニズムみたいなものが、日本の知識人層で、けっこう歓迎された……みたいな記述がありました(アデニー・トーマスさんの『近代の再構築』法政大学出版会)。「追随する国のあわれさ」と言ってしまえばそれまでですが……「日本独自の思想を打ち立てにゃあいかん!」と思った時点ですでに負けてる。本来勝ち負けカンケイないはずなのに、「その土俵」に乗った時点ですでに負け……この間、NHK教育で、西田さんはじめ京都学派の哲学者たちが、結局太平洋戦争に巻きこまれていく過程をやってましたが(『日本人はなにを考えてきたか』という番組)……



西田さんは、やっぱり当時の軍部に、思想的に「協力」したとしか思えないというニュアンスだったと思います。それも、強制されての協力ではなく、かなり自分から乗っていったところもある……そんな感じで。まあ、カンタンに言えば、大東亜共栄圏とか八紘一宇という、例のヤツですが……戦後は、もう誰も見向きもしないこの「思想」に、当時は、「大哲学者」だった西田さんまで乗っかって……しかし、ジェイムズの「多元宇宙」の底に、どうしても「統一的価値観」を見なければおさまらなかった西田さんの考えからすると、「時代の風潮」ということを抜きにしても、なんか思想的にスルッといっちゃったような感じも……

このあたりは複雑ですね。「多神教」にかんする、自分でも意識していないようなレベルでのコンプレックスがあったのか……考えてみれば、飛鳥、奈良時代の仏教の導入も、結局「統一的価値観」の問題だったのかな……という気もします。「統一的価値観」は「政治」と極めて相性が良くて、知らない間にスルッといってしまう……戦後、「原爆はダメだが平和利用の原発は推進」で国民みんなが納得したのも、「科学技術」という「統一的価値観」が「政治」と極めて相性が良くて、スルッといってだれもが疑わなかった……そういうこともあったような気がします。そして、例のSTAP細胞騒動……

これも、「長生きはいいことじゃん」という「統一的価値観」がもうすでに国民の間に根強く形成されちゃってるので、ソレに乗っかってスルッと行きかけた……んですが、錬金術師の魔術があまりにすごいというかお粗末で、ちょっと待てよと……でも、リケンの方々はみな、この錬金術師のパフォーマンスにやられてしまって、もう無条件に「採用だー!」と。そういう、ちょっと信じられない展開のバックにあったのは、国民的了解事項の「長生きはいいことじゃん」……しかし、それが、「統一的価値観」であったはずの「科学的なものの見方」を根底から揺るがすことになったのは、皮肉というべきか……

巨大施設と、それを回す研究費……これは「政治」から取ってこなきゃいかん……やっぱり「統一的価値観」は「政治」と極めて相性がよろしいようで……でも、一人の錬金術師が、そのすべてを覆してしまった……コレ、「錬金術」の内包する本質みたいなものを考えると、もしかしたらかなり深い層にまで届いている「事件」なのかもしれません……「進化論」の表面的なわかりやすさと、それとは真反対の「深い層まで無限に続くわかりにくさ」……ここから出発してどんどん迷路に入っていくと、もうなにがなんだかわからなくなります……実際の「生命界」というのは、「実際」なので、おそろしく複雑怪奇……

自分という一人の人間が生きてる……というのは、それだけで実は、ものすごい奇跡みたいなものなのかもしれません。むろん、人間のみならず、いろんな動物も植物も……そういうものを「系統樹」でずらっと並べて、これがこれからこう進化したのだ……と。考えてみれば、かなり大胆不敵なことを堂々と言ってて、みずからそれが真実であることを疑わない。しかし、今、ここにいる自分は自分であって、それが進化系統樹のこの位置におるのだ……と言われても、ぜんぜん実感というものがありません。そうか……オレは、人間というモノなんだ……そう思っても、あと数年ですぐに違うものになるかもしれない……

いや、数年といわず、自分の身体の一部は、つぎつぎと代謝して「違うもの」になっていってる。にもかかわらず、自分が自分だと思う……コレ、ふしぎです。カフカの『変身』では、一夜明けたら虫になってたわけですが、にもかかわらず「自分」という意識はまったく変わらずある……まあ、最初から意識まで虫になってたら、多分小説にはならないわけですが……ことほどさように、「自分」というのは不安定なのに、なぜか数十年間は安定しています。で、その間に、宇宙全体を統一する価値観を捏造?して、世界を理解したような気分になる……これはもう、一種の病気としかいえないと思います。人間というやまい……



これにかかると、「人間」になって、世界をどんどん造りかえていくのできわめてやっかいですね……みんなどう思ってるんだろう……人間以外の存在は。きっとヤだなあ……とか思ってると思うのですが、それは人の言葉にはならないから、人にはわかりません。なんか、勝手に進化の系統樹とか造って、オレたちを勝手にあてはめて、自分を頂点においていい気になってる……考えてみれば、とても恥ずかしいことだと思います。まあ、勝手にやってるだけなので、「真実」にはぜんぜん影響しないわけですが……人間って、ほんとに困ったビョーキです……