盲導犬がフォークとおぼしきもので、身体の四カ所を刺された……でも、吼えもせず、騒ぎもしなかったので、飼い主はずっと気がつかなかった……このニュースを聞いたときに、「あんたん」たる気持ちになりました……まず浮かんだのは、「刺したヤツを死刑に」という言葉だった。でも、このニュースの含むものは、それだけでは済まなかった……
なんでそんなことをしたんだろう……と思って考えていくと、自分が「ゼッタイにそんなことをやらない」とは100%言い切れない……ということにつながって、こんどは「がくぜん」とした。むろんやらないんだけれど、やったヤツの気持ちが「まったくわからん」とはちょっと言い切れない。わかる、とはいわないけれど、わからん、ともいえない……
街を歩く盲導犬。やっぱり犬だし、それもけっこうでっかい犬なので、犬の持ってる「コワさ」みたいなもんはどうしても共通してある。電車にも乗るし、レストランにも入る。そういう、「フツー犬が入ってはいけない場所」にも自然に入ってくる……テレビなんかで盲導犬のことはよくやってるから、それは「公共的に」許可されてることはわかってる……
おそらく、刺した人物も、それは知っていたのでしょう。でも、自分の「ヤだな」と思う気持ちに勝てなかった……テレビでは、盲導犬関係の人が、「盲導犬は、飼い主の<目>だから、犬に対する攻撃は、飼い主の<目>に対する攻撃」と言ってた。この言葉には、イジョーに反発を覚えた。これ、ある意味、刺したヤツといっしょだ……
そーですか……盲導犬は、飼い主の「目」にすぎんのですか……なんという人間中心の考え……犬がかわいそうではないんですか……飼い主の「目」がかわいそうなんですか……刺した人物は、おそらくそんなことは考えてなかったと思いますが、その行為には、こういう「盲導犬をつくりだした人間社会」に対する反発が……
刺したヤツは、強いヤツの中の弱いヤツだと思います。この点、ヘイトスピーチといっしょ。「なぜ、あんなヤツらの利益を守るんだ、オカシイ!」という、社会に対するこういう思いが、あのナサケナイ行進を呼ぶ……ナチスの台頭のときもそうだった。「なぜ、ユダヤ人が野放しにされてるんだ!」
マイノリティは、成熟した社会では、法律で守られます。でも強いヤツの中の弱いヤツにはこれが納得できない。なんであんなヤツらの利益を、国が守ってやんなきゃならないんだ……ヒドい目に会ってるのはオレたちなんだ……オレたちをほっといて、あんなヤツらを、この社会は守るのか……強いヤツの中の弱いヤツはこういう。
今回の「盲導犬刺傷事件」にも同じような「沈黙の叫び」を感じる。強いヤツの中の弱いヤツは、自分が、いつもワリをくってる……くわされていると感じる。それで、社会や法律によって守られてるマイノリティを見ると、「あんなヤツらのためにオレたちが……」となる。
強いヤツの中の強いヤツはたぶんこうはならない。
というか、なる必要がない。強いので……強いヤツの中の弱いヤツは、自分が強いヤツの中にいることを知らない(フリをしている)。被害感情がなみなみと注がれているから、それは自然にあふれかえってヘイトスピーチになったり、盲導犬をみるとフォークで刺したくなったりする。盲導犬が……
攻撃を受けても、人間にはゼッタイに反撃しないということを知ってやってる。まさに強いヤツの中の弱いヤツの真骨頂だ……ここまで「堕ちる」ことができるのか……強いヤツの中の弱いヤツは、自分で自分を救うしかない。自分がそういう気持ちになるとき、やっぱり「オレってサイテイ」と思う心……
コレがだいじだと思います。コレがないと、ホントにやっちゃう……ユダヤ人400万をガス室に送ったのは、こういう強いヤツの中の弱いヤツでした。でも、今度は、やられたユダヤ人が、パレスチナに同じことをやってる……「被害感情」は、必ず弱いヤツのものだ。強いヤツは当然、こんな余分なモノは持ってない。
でも、多くの人間は、やっぱり弱いヤツ……それは、自分も当然含めてなんだけれど……だから、「盲導犬に対する攻撃は飼い主の<目>に対する攻撃」なんて言葉が平気で言える。これにかんするかぎり、どっちもどっちだ。犬を人の<目>として使うなんて発想は、やっぱり、コレ、ヨーロッパのものでしょう。
昔は、奴隷をそうやって使っていた。そういう社会の中から「盲導犬」が生まれ、大虐殺も生まれる。法律でマイノリティの権利を守るということは、そうしなきゃならないような必然性が社会自体の中にあるから……だから、力と力の抗争になる。ヘイトスピーチのような「汚物」も、当然そこから生まれてくる……
「汚物」……強いヤツの中の強いヤツは、逆にヘイトスピーチを批判している。国際的に恥ずかしい行為だと。で「日本人よ、誇りを持て」という……なんという無神経な言葉……まあ、強いヤツの言葉です。フツーの弱いヤツは誇りもなんもない。ただ、「被害感」がなみなみとあふれて、溺れている……
この、平成日本という社会も、だんだん危ないところに近づいてきたなあとつくづく思います。みんなが強いヤツの中の弱いヤツになっていく……それは、結局弱いヤツの社会だ……どうなるのでしょうか……最後に、今読んでるヘーゲルさんの『精神現象学』の中から、ちょっと関連ありそうなところを……
『意識のもとにあるこの自然が「感覚」と呼ばれるもので、それが意志の形をとってあらわれたのが「欲求」とか「好悪の情」と呼ばれるものだが、それは自分独自の確固たる思いや個別の目的をもっていて、だから、純粋な道徳意志や意志の純粋な目的に対立するのである。が、純粋な道徳意志にとっては、この対立を押しのけて、感覚と意識の関係を、もっといえば、感覚と意識の絶対の統一を、作りだすことが肝要である。意識のもとにある純粋な思考と感覚とは、もともと一つの意識に包含されるもので、純粋な思考とはこの純粋な統一を自覚し、うみだすものである。が、意識にとっては、思考と衝動の対立は否定のしようがない。そのように理性と感覚が対立するなかで、理性のとるべき態度は、対立を解体し、両者の統一という結果をもたらすことである。この統一は、両者が同一の個人のうちにあるという当初の統一とちがって、対立の認識を踏まえてそこから生じてくる統一である。そうした統一こそ現実の道徳と呼ぶにふさわしいもので、そこには、現実の意識としての自己と共同的なものとしての自己との対立がふくまれている。いいかえれば、見られるように、道徳の本質に根ざす媒介の運動がそこには表現されているのである。』(長谷川宏訳:ヘーゲル『精神現象学』p.411から)
なるほど……こうやって、ヨーロッパの思考は、「道徳」というものを社会的に形成してきたのか……個人のうちにとどまる段階と、それが社会共同体の中で展開される段階……しかし、ヘーゲルさんの思考は、この部分では「まっとう」に見えるけれど、やっぱりこれだけでは済まないのでした……そこが、おもしろいところなんですが。
