先週金曜日に、TVで『もののけ姫』を見ました。ひさしぶりに……この作品、劇場で見て、それからレンタルとかTVとかで何度も見る機会があったんですが、このところしばらく、見てなかった。何年ぶりでしょうか……美しい映像で見直してみると、いろいろ新たな発見があったんですが、基本的な感想は、やっぱり変わらなかった……それは、「もう一つの日本」ということですね。このことは、以前にどこかで書いたことなんですが、今回の『三輪』にも関連してくることなので、もう一度書いてみます。

学校や歴史の本やTV番組(特に大河ドラマなんか)では、日本の歴史を、かなりキーパーソン、つまり英雄中心に描く傾向があります。この点は、最近だいぶ改善されてきて、いわゆる「常民の暮らし」みたいなものに焦点を当てて紹介する書籍も数多く出版されていますが、TVとか映画みたいな「万人受け」する必要があるものにおいては依然として英雄中心で、とくに大河ドラマなんか、それが顕著ですね。幕末と戦国をかわるがわる取り上げて、出てくるのはだれでも知ってるヒーローヒロインばかり……

最近、兼続とか篤姫とか八重さんとかあんまり知られていない人たちも登場しますが、それも、まわりの超有名キャラに支えられてのもの……しかし、宮崎監督の『もののけ姫』では、もろに戦国時代を描いているはずなのに、有名ヒーロー、ヒロインの影も登場しません。まあ、わずかにマイナー戦国武将の姓だけが数回出てきますが……しかし、だからといって、この作品が民俗学系統の視点からの「常民の歴史」を描いているかというと、そうでもない。むろん白土三平風の「下部構造でゴリゴリ」でもないし……

この作品は、おそらく『ナウシカ』や『ラピュタ』みたいな「純粋ファンタジー」、つまり、ときもところも定かではない物語の系譜上にあるんだと思いますが、しかし、それにしては妙にリアルなところがあって……「たたら製鉄」の件はよく取りあげられますが、もう一つ、「山の道」のこともそうだと思う。ただ、リアルといっても厳密な考証に立脚してないのは当然で、それでもつくれてしまうのは、「アニメの強み」なんでしょう。「こども向けアニメ」ということなので、それで「考証」をブロックできる。

ところがその分、考証ガチガチのものよりはるかに「リアリティ」を出せるというのもまたふしぎなものだと思います。この作品では(以下ネタバレあり)、森の神であるシシガミが、人間の鉄砲によって首をとばされ、それによって「シシガミの森」つまり日本の古代の大森林が崩壊して、人の手になじんだ「里山」に組み替えられていくさまがみごとに描写されますが、こんなこと、「考証ガチガチ」ではとってもできない。そこがファンタジーの強みというか、さらに「真実」のリアリティーに迫れる力の源……

ということで、この作品にかんしては、まだまだ語り尽くされていないいろんなことがあると思うのですが……その一つが、さきほどちらりと触れた「山の道」です。この「山の道」は、作品冒頭のアシタカの旅(おそらく東北から中国地方?)にまず、雄大に描かれますが、その後も、作品全体を支える一つの大動脈となっている……この時代、今よりはるかに、人々は「山の道」を使っていた。今の日本の文明は……

完全に沖積平野中心になっていますが、おそらく明治のかなり後期、いや、もしかしたら昭和のはじめ頃までは、沖積平野の文化と併行して「山の道の文化」というものがあったと思います。人は、山の尾根伝いに、この日本列島をかなり自由に行き来していたのではないか……そして、それは、同時に、けものたちの道でもあった……沖積平野が開発され、街ができて人口の大部分がそこに集まるようになったのはつい最近のこと……

かつての日本における「高速交通手段」は、障害の多い(これは、自然的なものも人為的なものも含めて)沖積平野と海岸ルートよりも、「山の道」と、もう一つは「海の道」であったのではないかという気がします。そういえば、宮崎監督は、『ポニョ』では、「海の道」の方を取りあげていた……『ポニョ』の舞台のモデルは瀬戸内海の鞆の浦ですが、ここは、かつては海民の一大根拠地であったみたいだし……

『もののけ姫』でクローズアップされた「山の道」は、どうもこれまで、まともには取りあげられてこなかったんじゃないか……しかし、戦国武将の戦いにおいても、実際には、山の道に点在する「山城」の争奪戦が主体だった。山城をどんどん攻略していって、最後に山と平野の境にある城下町を抱えた城を落とす……そんなかたちではなかったかと思います。そして、それらの山城には、やっぱり一国一城の主たちが……

『もののけ姫』におけるエボシ御前の「たたら場」も、そんな山城の一つと考えるとわかりやすいと思います。「鉄」という重要な武器材料の生産拠点を中心にして成立する山城……これは、かなりいいところに目をつけたもんだ……と。そして、そういう山城は、周囲全体を「人に馴れない自然」に取り囲まれていた。そういう姿が、もしかしたらより真実に近い戦国時代の日本の姿だったのかもしれません。

だから、物語の終盤で、エボシ御前は、自分の「城」が戦国大名の兵に囲まれていても「シシガミ殺し」を優先したのではないか……本質的に処理すべきは、人ではなくて「古代の自然」であると。そういう認識があるところなんか、この女性はタダモノではない。正直言って、大河ドラマに描かれる戦国武将たちよりはずっとリアルだ……実写がアニメに負けてるというか……むしろ、アニメにしか到達できない領域か……

というところで、この能『三輪』の話に戻ります(今まではすべて前フリでした)。私は、昔、よく三輪大社(大神神社)にお参りしたんですが、ルートはほとんど近鉄でした。近鉄特急で名古屋から乗って、2時間足らずでしょうか……列車が、伊賀の山並みを抜けて奈良に入る。その境目はあんまりよくわかりません。いつのまにか奈良県に入ってるんですが、同じような山々が連続する……しかし、そのうちに、なんとなく「開ける気配」が……



大坂へ向かう列車の右側の車窓から見ていますと、山並みが徐々に「整序」されてきます。これはヘンな言い方ですが、「整序」としかいいようがなく……長谷寺を過ぎるころから、やっぱり「ああ、近いな」という雰囲気が漂ってきて……窓から見る山の稜線が、ほぼ一定の高さで連続するようになる。と、やがてその最先端の山並みが、立体的に変化して、あの特徴ある三輪山の三角形を暗示する……とまもなく、列車は大和盆地に抜ける。

この瞬間は、いつ乗っても感動ですね。山を抜けた……その感じ。山は、列車の右手後方に退くとともに、あの三輪山の端正な二等辺三角形として生まれかわる……と、ほどなく列車は桜井の駅に到着するのですが、ホームから見る三輪山は、その背後にあの膨大な山の連なりを蔵しているようにはとうてい見えない。もう、完全に独立峰の姿になっています……なるほど……これが、やっぱり古代の人の視覚なのか……

古代の人にとっては、平野や盆地から見る山は、その奥に、膨大な広がりを持つ「山の道」を秘めた、ふしぎな領域と見えたのでしょう。現代人は、沖積平野に展開する田畑や街や工場にしか関心がないから、平らなところを区切る山々は、単なる「遠景」にしか見えない。しかし、昔の人にとっては、まちがいなく山は「神の住むところ」であって、そこでは、平野とはちがった法則が働き、この国全体をおおう「もう一つの世界」があったのです。

この謡曲『三輪』でも、冒頭に、シテ(里の女)の第一声で、「三輪の山もと道もなし、三輪の山もと道もなし……」と謡われます。今は、三輪山の麓も開発されていて、三輪大社の前も観光用に整備された道が通ってますから「道もなし」の風情が理解しがたいのですが……おそらく昔は、そう簡単には入っていけないようなところだったかもしれません。たぶん、そのあたりのところを押えておかないと、この能の理解にも狂いが生じるように思います。

そしてまた、「道もなし」というのは、「道をつくろうとしてもできなかった」というよりはむしろ、「道はつくらない」ということだったのではないかという気もします。要するに、「なにごとがおはしますかはしらねども」という気持ちが昔はみんなにあって、だいじなところは「開発」せずにそっとしておくという……なぜなら、そこは「神の領域」であって、またすなわちそれは「もう一つの世界をおおう森の入口」……

すなわち、いにしえの日本の人々は、たとえ平野や盆地に暮らす人であっても、その背後をおおう膨大な「後背森林」の存在を常に感じていて、そこからの「力」をいつも受けながら暮らしていたのだと思います。そして、この「事情」に変化が訪れるのがまさに戦国期。『もののけ姫』の舞台設定となった時代でもあり、また、この能『三輪』が成立した時代でもある……そんなことを考えると、この能のふしぎな部分も、なんとなくわかってくる。

前に、この作品では、能ではきわめて珍しい「神楽舞」が舞われるということを書きましたが、この「神楽舞」で象徴される「古代」は、天岩戸を開くという天照大神の挿話をターニングポイントとして、「中世」(当時の現代)へと開かれます。そして現われた三輪明神は、なんと、男に恋し、男に捨てられて僧に罪のあがないを求める、なんというか、これ以上フツー?はないと思えるくらいの現代的な女性……

うーん……『もののけ姫』では、エボシ御前という、当時最先端の武器製造工場の社長が「森のヌシ」であったシシガミをしとめて古代→中世への「大転換」を行いますが、見方によってはこの能『三輪』においても、古代の神であった三輪明神を骨ヌキ?にして現代的な(むろん当時の)仏教の一信徒に改造してしまうというきわめて大胆な「神殺し」を行っている……それも、「殺戮」みたいな物騒な方法ではなく……

この能が、神様が登場する「脇能」ではなくて、四番目もの(あるいは三番目もの?)になってる理由も、このあたりを考えてみれば納得ですね。だいたい、本来は、三輪山の神は、オオモノヌシノオオカミという極めてオソロシイ神(もちろん男神)のはず……それを、男に恋してふられて僧に助けを求める女性にしてしまう……これは、なにかほかに理由があるのかもしれませんが、結果からみれば「そこまでやる?」というくらいの……

これって……当時の人が見たら、どう思ったんでしょうか……いずれにせよ、ここから先は、戦国期も終わって江戸期に入り、沖積平野の開発が進むと同時に山々の深い森も開発されて「里山化」していきますから、この能に現わされているような「道もなし」の深山が、人間の側にぐっと引き寄せられて「日常」に組みこまれていく……そういう一つの「勢い」の象徴として、当時の人々には、この能の展開は、きわめて「モダン」に映ったのかも。

当時の人ではないのでホントのところはわからないのですが……あの、近鉄特急からみた、深い山並みが徐々に整序されて端正な三輪山になっていくシーンが、古代から中世への時間的な移りゆきとオーバーラップして浮かんできます。人は、平野を開発し、それとともに山を忘れ……山は、今、「荒れた自然」に戻りつつある……すでにもう「山の道」も失われたこの現代という時代。日本の人々は、なにか大きな忘れ物をしたんじゃないかな……